(第二の論点 善悪の絶対的な判断基準と自由と平等の正しい解釈)

(1)一人一人の人間が日々の物事を決する時に用いる「人間が持つべき判断基準」
と「正しい優先順位」については日本人はしっかりした基準を持っていない例が多
く見受けられます。
公的な「仕事」と私的な「家庭」との公私の区別区分は明確に行った上で「仕事上
の判断基準」としては以下の通りが一般的と考えられます。
第一順位は純粋に人間の長い歴史によって練り上げられたその時代の人道的、国際
的、国内的の法律や規則などのルールに則った、善悪・適不適による判断。
つまりその時代その時代に存在する国民個人個人の過半数が善いと考えていること
が、その時代の「善」であり、悪いと考えていることがその時代「悪」なのです。
善悪でさえも無常(常無し)であり、時代時代に応じて変化・変異するのです。
したがって国会議員はその問題が起こった時点で国民へ説得や利害得失を説明した
上、国民の判断に耳を澄ませ、何人からもどんな組織からも影響も受けず自らの良
心と良識に応じて最高裁判所の判事のように自ら個人としての判断で国会内で善悪
を裁決することが国会議員を通じての国家の時代時代の善悪の正しい決定方法なの
です。だからこそ世論調査や情報公開は完全な手段ではないにしても重要なのです。
もちろん同一問題につき、別々に異なったルールが存在する場合は、上位の法律、
規則が優先することは当然なのであります。
第二順位には人間の本能に基づく「自己」と「協同体」の「長期的生き残りと発展」
にとって有利か不利かの誠実で正直な損得計算 (真に役に立つか?費用対効果は?
・採算計算は?)による判断。
これは人類の持つ利己的遺伝子の発現による利己的意識、利他的意識から生ずる生
き残りのための計算がその本質である。
第三優先順位になって始めて力関係(人間関係的なものも含む)に基づく判断の要
素が入ってくるべきなのであります。
つまり複数の選択肢の内、上位の優先順位の案を優先し、複数案が上位の判断基準
で同一順位なら下位の基準で比較して優劣を決める手順で判断すべきなのです。
したがって仕事上の判断の基準において力関係や人間関係を判断の第一順位にする
と言う日本人独特の考え方は絶対に誤っており終焉の時が近づいているのです。
つまり日本人の悪い癖はこの判断の優先順位を誤って適用し
第一順位に力関係(組織が判断したことだから、先輩が判断したことだから、上司
が判断したことだから、親会社が判断したことだから)を優先し、
第ニ順位に損得計算つまり役に立つか得か損か(費用対効果・採算計算は)になり
第三順位にもっとも大切であるべき善悪・適不適の判断が最下位の順位になってい
ることであります。私はこれを「日本人の判断の倒錯」と呼びたいと考えています。
このように判断順位の誤った適用があらゆる諸悪の根源になっているのであります。
とくに競争にさらされていない公的組織や民間でも巨大な組織ではその傾向は極め
て強く自分の所属している組織の力関係を重視するあまり、「善悪」 や「損得(真
に役に立つか)」を無視し、先輩の行った過去の判断の誤りを正すことをためらっ
たり、力になびく傾向が極めて強いと言わざるを得ません。これこそが各種の問題
において経済や社会に悪影響を与えているのに全く改善されない元凶であると考え
ています。家庭内や家族関係や私的な問題においてさえ第一順位の最重要性は変わ
らないはずなのに、それさえも愛情とか力関係を優先させる日本人の悪弊が根本的
に改めるべきであります。もちろん家庭内や家族関係や私的な問題において仕事上
の厳格であるべき判断順位と異なり愛情とか感情によって第二順位と第三順位の判
断順位の変更は各人の価値判断において自由に変更することはやむを得ないと考え
ています。 
ただ第一順位の判断についてはたとえ家庭内、家族関係、私的な問題といえども、
変える事は出来ません。しかしプロの「仕事」においては私的な家族関係などとは
全く違い、ルールを厳密に適用して運営しなければならないのでルールの正確な適
用意識が大切なのです。消費税問題が根本的に議論されない原因も余りに大きな問
題であるため組織や上司や先輩などとの力関係に傷をつけたくないという日本人独
特の悪しき配慮から「判断の倒錯」が起こっているのです。そしてこれが改善され
ない最大の理由は突き詰めれば我々日本人一人一人の個人としての 「勇気の無さ」
「判断順位の適用の不正確さ」「区分や区別意識の無さ」「自由と平等に対する誤
った解釈」ためだと考えています。批判的精神で勇気を持つべき優秀なエリ−ト層
が「赤信号みんなで渡れば恐くない」という考え方でまとまっている様は日本の悲
劇としか言いようがありません。時間があればアメリカ映画の「ウィットネス・プ
ロテクション」(リチャード・ピアス主演)つまりアメリカ政府が現実に実施して
いる過去16000人以上に適用した「証人保護プログラム」による犯罪の重要証
人と証人の家族を守るための政府機関の活動状況をフィクションではあるが、描い
た映画であります。重要証人とその家族に偽名を使わせ、生活を保障し、証人と家
族を守る姿に、「善を守る難しさ」と「正直者はバカを見る」を断固として排除し
ようとする完全ではないにしろ、国家意志を強く感じます。この様な完全なプログ
ラムは残念ながら日本には存在しません。また「司法取引、おとり捜査、盗聴」な
どアメリカで合法とされていることが、日本では殆ど認められていません。これは
国家の成立や政府の成立そのものが、日本のように上の人達の権力移譲で出来上が
った国家と、下から積み上げて出来た国家の根本的な違いと考えられます。つまり
国民に犯罪の詳細まで知らせ、国民自身を裁判官とする陪審員制度をとるアメリカ
では国民は犯罪者がどのような行動をとり、どのように残虐であり、どのように犯
行を隠すかを事件毎に事細かく知る立場にあり、更に誤審の恐れの現実も良く知る
ために「真実」の探求の難しさと「真実」を探求しなければ結論が出せない現実か
ら、「真実の探求の優先」と「人権の尊重」のギリギリの接点として設けられてい
る制度と考えています。我々日本人は残念ながら科学の世界では熱心であるのに、
人間同士の社会の中では「真実の探求に熱心ではなく」常に「正直者はバカを見る」
「長いものには巻かれろ」「赤信号皆で渡れば怖くない」「寄らば大樹の陰」で生
活しているが、いづれこの考え方は行き詰まり「真実や事実を基礎に」物事を判断
する時代が来ると考えています。
(2)日本人の「自由と平等」に対する考え方と「アメリカの自由と平等」の定義。
日本で一般的に誤って解釈されている「自由と平等」と比較して、正しい学問的な
自由と平等の概念は、これを厳格に遵守しているアメリカで発達した「自由」と「平
等」の概念とほぼ同一と考えれば概ね誤りが無いと考えています。
つまり「国と国民」「国民と国民」の相互関係において「参加の自由」と「対等な
平等」(結果の平等ではなく、競争において何人も対等で平等であるべきという意
味)が厳格に守られ「フェアーな競争」が行われなければならないのであり、「参
加を妨害する自由など、全く認められていない」のです。
そしてこれは企業と企業、企業と人間の相互関係においても、法律に則った契約条
項や国民の幸福追求に反しない限り守るべき原則なのです。これは「民主主義」と
「人間の作り上げる進化システム」の基本作動条件なのです。 これは福沢諭吉が
「学問のすすめ」であらわした有名な言葉「天は人の上に人を作らず、人の下に人
を作らず」さらに1776年この言葉の基礎となったアメリカ独立宣言の中心概念
である「全ての人は平等につくられ―――」があります。これは人間が作る進化シ
ステムにおいて「フェアーで自由な競争」が前提条件として、どれだけ厳格に遵守
しているかによって経済成長と経済社会政治の進化スピードが決まるのです。日本
国憲法は自由概念の規定と平等概念については極めて規定方法が不備であり特に平
等概念については「法の下の平等」と低い概念として規定しており不満であります。
本来は進化システムにおける「人間のフェアーで自由な競争」の「競争資格条件」
が「人間の対等な平等」(結果の平等ではなく、競争において何人も対等で平等で
あるべきという意味)であり厳格なルールの遵守が必要であります。したがって法
律によって適当に都合良く「自由や平等」概念を取り扱うと、進化の方向性が為政
者によって人為的にゆがめられてしまい大変な副作用が生じてしまうのです。残念
ながらこの副作用に気づかず「経済、社会、政治、軍事の法律制度を作り上げてい
るのが日本の特徴」なのであり多くの法律や制度にこの欠点が見うけられるのです。
しかし世界的に認められている唯一の例外が「核拡散防止条約」であり、特定核保
有国の軍事上の優位を固定化し、厳しい核管理を条約化しているのです。短い条約
ですので原文を参照することをお勧めします。つまり「参加の自由」「対等に平等」
でさえ、世界が認識すれば人類の幸福の維持のためには例外はあるのです。
さて人間一人一人に対する「フェアーな参加の自由と対等な平等という概念」を厳
格に遵守することは、現代社会の基礎ルールと社会経済を正しい方向へ進化発展さ
せるための進化システムの基本競争ルールなのです。 このルールを修正して良い
場合は、そのほうが国民の幸福の追求に真に役立つときだけ限定すべきなのです。

それではアメリカ流の「絶対性を持つ自由」とは何なのか。
これを理解しないと全てが理解出来ないのです。アメリカ流の「絶対性を持つ自由」
とは「自由放任」の経済政策をいかに理解するかにつきるのです。
自由放任が古典派経済学的な資本家に好き勝手にやらせることが結果として良い結
果をもたらすという幻想とは全く無縁であることを強調したいと思います。
アメリカ流の「自由放任」政策はアダム・スミスの国富論以来、一般均衡理論の元
祖であるワルラスなどが主張している如く「誰でも市場に参加でき、互いに対等に
競争できる環境条件を整備し、そこで自由に競争させよ」という意味なのでありま
す。つまり参加の自由こそ「自由の定義の本質」なのであります。そして参加の自
由を保障し対等で平等な条件下で競争させて優劣や良い悪いを決めるという考え方
が核心なのです。
「自由に参加し対等の条件で競争することを妨害する自由」は徹
底的に「規制し排除する」というのが「自由放任政策」の要諦なのであります。
次項に「日本の最高責任者である国会議員に参加の自由が殆ど無い日本政治の政党
システムと党議拘束」が「日本を適切な方向性を持った経済発展、景気回復、財政
再建を妨げている最大の要因」であることを指摘しております。
自由つまり「参加の自由はこれを遵守しない」と国家を不況のどん底にたたき込む
ほど「強烈な概念」なのです。実はアメリカは世界で最も特異な政治システムを採
用しており全国組織の政党が存在しない国家なのです。つまりアメリカには政党の
党首も委員長も党代表も存在しないのです。したがってアメリカの国会議員は「理
念、観念で塗り固められた政党の支配」から脱して、最終的には「国会議員個人の
政治に対する参加の自由」で「経済環境、政治環境に適応した国会採決」を行って
いるのです。この意味するところは強烈であり、これが正に特定の人間や特定政党
や勢力が国家を制御できない「進化システム」の特徴であり、アメリカが他国と異
なり、経済社会が発展成長進化している根源なのです。(詳しくは次項)
さて経済の分野ではアメリカは世界に先駆けて厳しい独占禁止法を制定し厳しく運
用されているのです。したがってアメリカ流の自由放任政策の根本には、自由に参
加し対等の条件で競争出来る条件を作り上げるためにがんじがらめの「これを妨害
する自由への徹底した規制が存在する」ことを忘れてはなりません。 したがって
日本のように強者の好き勝手が自由にできる日本の商業慣行をアメリカへそのまま
持っていくと多くの点で、裁判沙汰となり不公正商業慣行として負けてしまうので
す。たとえば日本の税法には全く存在しない国内取引(海外取引ではない)におけ
る親会社子会社間の「アメリカの移転価格税制の存在」などは現代の日本人には全
く理解できないと思っています。これがあるからこそ、日本企業がアメリカへ参入
しても商品さえ優秀なら直ちにアメリカの大企業との取引に参加できるのです。ア
メリカ国内では親会社と子会社間などの「関係会社間取引についても公正な独立第
三者間価格の取引原則」が税法で定められており、親会社だから子会社だからと言
って特別な価格での取引は全く認められていないのであります。これに違反すると
アメリカの国内取引でも移転価格税制によって課税の対象になるのです。
これがアメリカのフェアーな商慣習の基本として定着しているのであり、良い物で
安ければ誰でも公平にどの会社でも参入しやすい土壌が出来上がっているのです。
ところが日本では親会社が赤字で利益を出したいときは、子会社に商品を法外に高
く売り親会社に無理矢理利益を出させ、親会社が利益が大幅に出ているときは、逆
に自分の子会社に優先的に商品を安く売って子会社に儲けさせ、親会社の利益を圧
縮することは日常茶飯事あり、極端にならない限り関係会社間のこのような取引は
自由であり日本では合法なのであります。  つまり売上や利益の支配会社(親会
社)による囲い込み、締め出し、なれ合い、談合は当事者間の合意(契約)であれ
ば自由で合法で当たり前と考えられているのです。いかに適正に比較可能な価格が
日本では実現していないか、「産業政策の基本を逸脱しているか」を理解して戴き
たい。したがって日本の大企業の系列取引に日本人自身が経営する企業でも新規参
入するのにどれほど苦労しているか、アメリカへ進出した場合のアメリカ大企業と
の取引へ新規参入する場合の簡単さと比較してその実情を知る多くの方々に賛同い
ただけると思っています。
この様な自由に対するはき違えが「日本の進化の遅れ」を誘発するのです。
つまり日本のエリート層によるこの「自由」のはきちがえに基づく悪名高い日本の
企業文化こそが日本経済の発展と進化を阻害する大きな要因になっているのです。
したがってこのような不公正でフェアーでない国民の幸福の追求に悪影響のある参
加の自由を妨害する恣意的な商慣習が合法として存在する日本では、元々関係会社
同士以外の独立企業が関係会社間に参入するのは至難の業な上、これが自由な関係
会社間の自由な意志決定である以上第三者の参入の自由な排除は合法であると観念
されルール化され、逆にこのような不当な排除の自由が規制されていないことが日
本では大問題なのであります。このことは官公庁の管轄する公益法人についても多
数事例が見受けられ、自由意思による合意であれば何でも(参加を妨害する事でも
他の企業を閉め出すことでも)自由に決めて良いのだという「とんでもない自由の
はき違えが官民を問わず日本では横行」しているのです。
ところがアメリカにおける「自由の概念は誰でも自由に市場に参入出来るという意
味で自由なのであり、決してどんな親しい間柄でも自由意志により第三者を閉め出
して良いと言う意味の自由は全くないのです。」日本文化とアメリカ文化の決定的
な違いは「絶対性を持つ自由」に対する定義が全く違っていることなのです。
アメリカ流の自由とは、スポーツ競技のルールやゲームのルールと全く同じと考え
ればすぐに理解できると思います。参加者はきちんと定められた競技ルールやゲー
ムのルールの中において「自由」「平等」なのであり、誰一人特別扱いはしないの
が、スポーツやゲームのルールなのであります。ルールを平気で破る人物を大物で
あると認識することはないのです。この考え方はアメリカ流の「フェア・対等の精
神」の概念に通じているのです。つまり「アメリカ流の自由主義」とは「誰でも自
由に参加でき」「多くの参加者は対等に自由に平等条件で競争し」「結果として大
衆が公平に優れた商品を選択・購入し」「それが真の経済社会の進歩・進化をもた
らす」という環境条件を整備するために「これを阻害するあらゆる自由を徹底して
規制し排除する」といった、強者の好き勝手を許さない非常に堅苦しい限定条件の
ついた自由と平等こそがアメリカ流であり、したがって弱者には競争こそ厳しいが
強者の圧力による不公平さや理不尽さが無く、努力する者にはチャンスが多く自由
と平等と感じられ、強者にとっては強者の名だけでは勝利は得られず常に強者にふ
さわしい誠実で正直で公正な実力を備えなければならず、ここが日本の慣行と大き
く異なる所であり、それこそが世界で受け入れられる価値基準であることを理解し
なければなりません。
日本の中小企業だけに課税される同族会社の留保金課税(アメリカの制度と似て非
なるもの)なども、大企業に課税されず中小企業にのみ差別的に課税される悪税で
ありアメリカ的な「自由」と「平等」の概念と真っ向から対立する日本的特殊概念
で作られている制度でありこれを何とも思わない日本のエリートの強者(大企業)
に味方する平等意識不在のフェアー・対等でない意識が大問題なのです。
日本国憲法は第十四条において「法の下の平等」を規定しており、この憲法条項で
は法自身が不平等の場合これを改善出来ない側面をもっており、アメリカのように
「人として自由」とか「人として平等」と言うように「絶対性を持つ自由」「絶対
性を持つ平等」が根源的概念として定着し「法より優位」な概念として定着してい
ないことが、日本の問題なのです。さて現代の日本の経済社会において、最も重要
な論点は「正直者は馬鹿を見る」(善悪を曖昧にし、善人に損害を与え悪人へ利益
を与えて放置しておく根本的に誤った標語)、「必要悪」(善悪の区別の付け方を
知らずルール無視の言い訳標語)、「欲しがりません勝までは」(経済の単純な停
滞をもたらし、経済的弱者を苦しめる標語)、「人に迷惑をかけなければ個人の自
由である」(現に日本を始め欧米並びに世界中の国で規定されている被害者なき犯
罪つまり社会や道徳に対する犯罪である他人に迷惑を掛けない両者合意の上で行わ
れる汚職・売春・麻薬犯罪などの犯罪や、不作為犯罪という見て見ぬ振りをする人
間を罰する犯罪体系の根本的な精神を全く理解していない人達の議論。この勝手な
自由の概念は日本独自の概念であり、アメリカなど他国では全く通用しない。)、
「赤信号みんなで渡れば怖くない」(現代日本人の自分の身の処し方も決められな
い勇気の無さの典型的な標語)、「長いものには巻かれろ」(昔から日本人に染み
ついた力関係に依存する意識を表す標語)、「大物政治家、大物官僚」(ルールを
守らない人間を大物と表現し有り難がる悪弊)、「コネ、たなぼた、玉の輿、逆玉、
働かないで儲ける方法」(公正な競争が行われない日本において若者を蝕む誤った
価値観)、「裏から手を回す」(手段を選ばない解決方法に罪悪感を持たない精神)
などの標語が通用する社会を徹底的に変革しなければなりません。
その簡単な解決方法が、社会のあらゆる分野に全ての人間に参加の自由を保証し人
間一人一人についてフェアーな自由と対等な平等を認め正々堂々と競争(協同)で
決める社会環境と意識を醸成することなのです。  まずは日本のトップから始め
なければなりません。   国会採決においては総理大臣と言えども一国会議員と
同じ一票しかなく、選挙においては一国民と同じく一票の選挙権しかないのです。
この本質を理解した正しい自由と平等の精神が必要なのです。 それでは何故総理
大臣は絶大な権限を持っているのでしょうか。それは国民の過半数以上の考え方と
同じ考え方を持っている場合にのみ、正当な権限を与えられるのです。
したがって日本の誤った標語やことわざが通用しなくなるような「スポーツ精神と
同じく皆で作ったルールは守り時代に合わせて改善すべきルールは時代に合わせて
すぐに改善し誠実で正直で勤勉に生きて子孫を生み育て日本の未来を支える普通の
人々が不利にならない社会」を目指さなくては日本の経済も社会も進化し・発展し
ないのです。
つまり人間が生きるために十分な商品やサービスが現に提供されてい
る成熟経済になると「善悪・適不適の判断」を的確に下して「時代時代に応じた人
間環境へ適応した進化発展する社会」にならないと停滞したままでは潜在需要が顕
在需要(消費)に転換できない経済社会になってしまうのです。 つまり国民大衆
が望む方向に社会が進みその方向へ経済の過剰性が拡大しないと経済も発展しなく
なるのです。 これがこれからの経済の拡大にとって重要なテーマになります。
さて日本では特にあらゆる分野において自由・平等・フェアー・対等の概念が薄く、
これはエリートが「自由・平等・フェアー・対等」概念を絶対視せず、他の原理・
原則を持ち出しその時の都合による「ご都合主義」によって他の原理・原則を優先
させるために起こる現象なのです。これによって日本の社会経済の進化のスピート
は遅くなり方向性も誤ってしまうのです。つまり人間個人個人についてしっかりし
た定義の「自由(フェアー)」と「平等(対等な)」が保証されたうえ競争して決
着をつけなければ正しい方向性の進化と発展は望めないしスピードも落ちるのです。
そして日本がヨーロッパ大陸的優越的国家論による「法の下の平等」になっている
ことが自由(フェアーな)・平等(対等な)概念が絶対視されず「自由(フェアー
な)」と「平等(対等な)」が法より優位に立てず日本では法律で決めさえすれば
何でもありの様相を呈し不平等・不合理・不条理が平気で法制化されているのです。
これに対してアメリカでは特権意識を持つエリートより遙かに強い「自由(フェア
ーな)、平等(対等な)」意識を持つ市民が裁判官となる陪審員制度の司法制度に
裏打ちされており、さらに判決自身が法律効果を持つという判例法体系(日本は成
文法体系)による事細かな規制が帰納推論(日本は演繹推論)で作り上げられてお
り、基準も規則も市民大衆自身の目線で分かりやすく作り上げられているのであり
ます。
日本人は善悪の判断を裁判所つまり特権的エリート専門家集団である「お上」に任
せ、自ら主体的に善悪を判断する訓練を全くしてこなかったことが、価値観の混乱
に拍車をかけているのではないかと思います。    現代日本では司法の世界で
も現実の国民大衆の意識に近づける努力や判決が次々に出てきていることは日本の
社会経済の進化・発展にとって誠に喜ばしいと感じています。 もちろん陪審員制
度にも色々な欠点があり、歴史的連続性にこだわる余り画期的な判決が出にくかっ
たり、逆に極端な判決や冤罪が出る場合が散見されるなど全く万全な制度ではあり
ませんが「市民自身が裁判の過程で無法者の実態を現実に詳細に知ることによって
犯罪の深刻さを身をもって感じることによるルール作成に対する教育効果と価値判
断の訓練」には絶大な効果を発揮していることを実感しています。
だからこそあのように人権思想が発達したアメリカ人の若者が犯罪に立ち向かった
り、国民的議論の上で国民の大多数の賛成の元に戦場に赴くときは、出征拒否者が
大量に出ることが無いのでしょう。  ここに全ての善悪の判断が、大衆に委ねら
れているアメリカの思想・哲学の健全性を感じるのであります。
また日本人にとっても、このアメリカ流の自由主義の考え方は赤ん坊から成人に育
った段階で、直ちに正面から人生の戦いに挑むことが出来て「輪廻」によって短い
生涯を終える我々人間にとって最も好ましい環境条件(システム)と考えています。
アメリカの法律は税制に至るまでアメリカ流の自由(これは近代経済学が求めてい
る学問的自由とも一致するのであります。)や平等を達成するために「それを阻害
する自由に対する根本規制と事細かい諸規制にちりばめられていることを理解しな
ければなりません。」日本人はアメリカ人が無原則な自由を容認していると勘違い
しているのです。私に言わせれば日本の方こそ、無原則な自由、特に本来は厳しく
規制すべき力関係を重視した競争者の参加を妨害する自由がはびこりすぎ不平等の
世界に陥っていると感じています。このことは日本の21世紀維新を達成するため
には、明治維新を成功させ明治憲法を制定した伊藤博文のヨーロッパ大陸国家的思
想から今こそ脱却し、当時「学問のすすめ」を著した福沢諭吉のアメリカ的自由民
権思想へ日本が脱皮することこそ現代化と成熟経済を達成した日本が新たに進化シ
ステムへ乗り換えることができる唯一の道であり、チャンスなのです。
この日本の進むべき道の方向性の模索は明治維新の論戦までさかのぼることの出来
る問題なのです。したがって「アメリカ流の自由」が全ての世界に行き渡り、貧し
い国々の人々の生活向上に役立つ(ドルの特権があるとは言えアメリカは自国の犠
牲を省みず膨大な貿易赤字を流出しながら貧しい国々を実質的に援助し市場を開放
し続けている努力には敬服する)ことは実績が示しています。しかし逆の見方から
するとアメリカは自国の消費をまかなえないほど国家の生産性が低いとも表現され
るかもしれません。つまり生産性さえも高すぎても低すぎても問題が生じるのです。
しかしこのアメリカ的自由に基づき自由貿易体制が発展することが「環境破壊」「人
口問題」などを発生し始めていること、つまり自由競争を通じて得られた人間の幸
福追求の努力へ、今までと違う思想を導入しなければ、将来人類の生存という根本
問題が崩れる可能性が出始めていることが現代的問題なのです。
であるからこそこれらに対応し時代時代の人間環境に適応して人間社会が進化発展
していくためには国の全ての政策の決定者は、その時代時代に生きる国の費用の負
担者であり政策の受益者であり、したたかでバランス感覚の優れたその時代時代の
国民大衆でなければならないのです。
(3)絶対的な適・不適の決め方
さてそれでは前述のような判断基準を基礎に置き情報公開や自由な討議の上(憲法
的に言えば誰の圧力も受けず良心に従い)人間の生活における長期的な幸福の追求、
人間の生き残りにとって真に役に立つとして国民の一人一人が判断し、国民の2/
3(66%)以上が良いと判断するであろうものは良いものであり、2/3(66
%)以上が悪いと判断するであろうものは悪いのであります。
この2/3の考え方は日本において憲法をはじめとして商法などにおいて特に重要
問題を決着する時の判断基準として定着しているからであり、価値判断が多様化し
てきている現代において100%基準は不可能だからであります。
さてこれでは少数意見が封殺されると抗議する人も出てくると思いますが、少数意
見者も民主主義では2/3の賛成を得られるよう(最低でも1/2以上の賛成を得
られるよう)「事実を公開し賛同を得られるような努力無しに権利は得られない」
のです。
つまり説得とか協力とか広報が重要となるのです。
そして「適」とされたことも、それはその時点の確定であり、常に流動する社会に
おいて、日常的に再確認され将来「不適」なる可能性もあり「不適」とされたこと
も同様であり、いつの日が国民大衆に認められ「適」となる可能性もあるのです。
このように大衆の判断や立場がはっきりしている分野の判断は間接民主主義とか議
会制民主主義と言えどもこれは覆せず大衆に任せ、政治家ですらこの世論を完全に
容認し、どのような理由があろうとも政治家はこれに反した判断はしてはならない
のであります。
これこそが進化システムが作動するルールなのです。
そしてそれ以外の50%―65%の賛成しか得られない多くの反対派が存在する国
論が分かれている分野については、絶対的善とか悪とか絶対的適とか不適とかは存
在しないと考え政治家が自由に議論し、より議論を深めながら議会制民主主義にお
ける議員の50%基準で決着すればよいのであります。
つまり選挙民は議員に白紙委任状を手渡したわけではなく、議員へ議員資格を認定
したと同時に限定的な決定権を与えたのに過ぎないのです。したがって国民の「真
の世論はどこにあるか」をしっかり把握する事が本当に大切なことになります。
マスコミの役目はまずこれを見誤らないことです。
マスとしての大衆の目は節穴ではないのです。
マスとしての大衆は「右とか左とかの理念に惑わされず直感的に鋭く現実を見据え
ている、したたかな」ものなのです。
その目を見誤らない事こそマスコミの役目なのです。
帰納推論で考えれば選挙は国民が国会議員に白紙委任状を提出したわけでは無いの
です。
アメリカの独立宣言で述べられているように「政府の権力はそれに被治者(国民大
衆)が同意を与える場合にのみ、正当とされる」という現代民主主義の究極の理念
が「その時々の世論を重視するアメリカの政治スタイル」として確立されており、
常に意識されているのであります。

ここにアメリカの民主主義が万全でないにせよ、人類に普遍的な広がりを見せてい
るのであります。少なくとも最重要問題については2/3以上の世論が賛成してく
れているかどうかを、エリートやマスコミは確認する必要があるのです。
逆に言えばマスコミは事実に基づく情報を提供しても、世論を誘導する事を生業に
しては、いけないのです。  マスコミはまず「縦から横から斜めから表から裏か
らあらゆる方向から見た全ての事実や真実」を報道すべきなのです。
そして最終的に少数のエリート層の判断より膨大な大衆の判断の方が「正しい」時
が多く、かつ少数のエリート層の独断より多数の大衆の判断の方が「片寄らず安全」
でありかつ判断が誤った場合でも国民自身の「自己責任が明確に出来る上、将来の
過ちを減らせる」という大きな学習効果と利点があるからであります。さらに日本
における政党による国会議員支配の弊害は次項にも述べている通りであります。
ミノ・モンタさんのクイズ番組「ミリオネア」において博学の挑戦者(エリート)
が回答不能に陥った時、会場にきている一般の視聴者(アメリカのように政党や派
閥に束縛されない独立性の高い国会議員や国民大衆と仮定)160人の判断を仰ぐ
「オーディエンス」においてこれらの人達の一人一人の独立した回答を単純集計し
最多解答を正答とすると、特殊な問題を除いてこの正答率が著しく高いことでも証
明されているのです。     この実例でも明らかなように独立した個人個人の
多数決原理を基礎とする民主主義の存在の確かさを示しているのです。
したがって日本でもその時点その時点における特に最重要問題として国民的議論に
なっている場合、日本のエリート層は国民の世論に耳を傾け注意深く配慮しなけれ
ばならないのは当然なのに、これが全く出来ていないのが各界を通じた日本のエリ
ート層の特徴であります。  ここに現代民主主義の究極の理念までには、民主的
な努力にかかわらず日本のエリート層とマスコミが到達していないことに経済問題
を考える場合強い危惧を感じるのであります。
(4)進化にとって重要なのは「理念や観念」などではなく誰にでも平等に適用さ
れる「ルール」(法律・制度・基準など)なのであります。
システム工学上の「進化システム」で最も重要なものは「自由(フェァーな)と平
等(対等な)」の条件下における「単純で厳格なルール」(法律・制度・基準など)
であり、全てはこれを意識して計画立案し施行することが重要なのです。
難しい論理をこねくり回し論理を組み立てる悪弊を無くさなければなりません。
先進大国の中で日、独、伊の旧三国同盟国の突出した合計特殊出生率の際だった低
率は、懸命な国家運営に関わらず、複雑な論理ばかりが優先し人間が生物として存
在する当たり前の単純な生物学的特徴を受け入れる思想哲学をこの三国が見落とし
ているためでは無いかとさえ思っており、日本民族は自滅(アポドーシス)の道を
歩んでいるのではないかとえ考えています。
これからの100年間に日本の歴史上はじめて未曾有の6000万人程度の人口減
が生じ、経済社会に大激動が生じることが、今から経済企画庁、厚生省が発表して
いるのに殆ど対策らしい対策が立てられていません。
本書はこのことも根本的に念頭に入れて改善策を提案しているのであります。



  次の頁へ    前の頁へ    目次へ戻る