(区分、区別と差別と優先順位の重要性について)

日本人はすぐにゴチャゴチャにしがちな概念です。
例えば作為犯罪と不作為犯罪の区別も大切なのです。
物事を区分したり、区別することは差別ではないかとして、日本人は避けることが
多いのですが、本来は区分とか区別の概念は非常に大事なものであります。
消費税も含めて日本のエリートの大きな欠点は自らの責任だけで良い悪いの判断す
ることを出来るだけ避ける傾向にあることであります。
消費税導入前夜の物品税において時代の流れに合せて、対象品目や税率を変えよう
としても、業界団体の反対にあうと、自ら良い悪いの判断を避けて業界の合意を取
り付けようとして纏まらず苦労の連続だったのです。
それならば対象品目を区分しないで全ての品目に同率の消費税を課税すれば、どの
業界へも平等の課税であるから、苦情に対して対抗できると考えたのも消費税導入
の一因だったのです。
本来政策とは、個別毎に良い悪いの判断を下すシステムであるのに、一律に一括に
下そうとするため「政策無き税制」になってしまうのです。
消費した物は何でも課税する消費税システムや交際費なら何でも課税する法人税の
交際費課税の限度計算なども好例です。
こうなると税を出来るだけ節税しょうとする人はどんなものでも消費税のついてい
るものは買わないし交際費は出来るだけ使わないという選択しかなくなるのです。
これが現在の長期不況の原因なのです。

さて区分や区別とそれに基づく判断の重要性は以下のように同じ結果であってもそ
の取り扱いは全く違うことを実例をあげて説明したいと思います。
人を死に到らしめた場合つまり「殺人はどんな罪」になるのでしょうか。
死刑 無期懲役 20年の懲役 10年の懲役  執行猶予 無罪 不起訴 勲章
授与と人を死に到らしめてもこんなにあてはまる罪や名誉が違って来るのです。
これこそが人間の社会の複雑さを表しており、「個別対応規制の大切さ」と判断の
難しさや重要性がお分かり頂けるかと思います。
このように個別対応規制の判断基準を作り、判断を下す区分区別するシステムを作
ってこそ官僚の価値があるのです。
そしてその場合罪を犯した「本人一人」について「主観的動機」「犯した行為」「事
実関係」つまり本人のみの要素から本人の罪を裁くわけであり、本人の家族状況、
本人の地位などで刑が変わることは無く、本人の属人的な要素が問われることは無
くどの人間に対してもその人一人の罪において刑法ではフェアーな自由と対等な平
等が貫かれているのであります。
日本の福祉制度もこの考え方をどうしても取り入れるべきです。

本人に切迫した危機が迫っている場合を例外として、本人の「受給の意志」と本人
の「現実の所得と資産」のみから判断すべきであって本人の「家族の所得や資産」
や「家族の扶養義務」など属人的要素を持ち出すことは、「家族が存在することが
不利益に働き」「自由と平等」に反し、人間の生き方に差別(区別や区分ではない)
を生じさせ人間の生き方に損得感情を生じさせてしまうので人間の正しいライフス
タイルの進化に深刻な悪影響(合計特殊出生率の低下など)が出てしまうのです。
したがって「家族がいるいない」で福祉政策を差別すべきでなく、全員原則として
同一取り扱いながら財政負担との関係から「市営住宅の入居方法のようにせいぜい
確率政策を導入してでも全ての人間を平等取扱いすべきです。」

このように物事を区別・区分し、その物事に応じて優先順位をつけて判断を下せる
システムを作って国民へ適用する所に「官僚の価値と政策」があるのです。
そしてその中に本人の自由意志を尊重して良いケースは出来るだけ尊重することな
のです。
ところが最大の問題は机に座りきりで統計数字や下からあがってくる報告書と言う
文字ばかり見ているエリート層は知識を詰め込んだ頭脳は優秀なのに現場で今実際
何が起こっているかを把握する索敵能力や実行能力並びにそれに対してどう区別し
て対応すべきなのかの能力が全く育成されていないのが現実であります。
常時現場で現実と向き合っている非エリート層では当たり前のこの能力だけが頭脳
優秀のエリート層にはほとんど欠落しているのだという現実を我々は絶対に認識し
なければならないのです。
したがって少数の本当に優秀なエリートになればなるほどこの自分自身の欠点を認
識し、机の上だけに座らずに現場に足を使っておもむき、自らの目と耳で実体験を
しその場での判断を重視する訓練を行ったり、率先垂範現場の先頭に立ったり、正
しい判断はどうあるべきかを常時吟味し現場の意見をじっくり謙虚に聞くなどの態
度をとるのであります。

しかし責任逃れを習い性にしている多くのエリート達は文書で他部署からの報告書
の提出を好み、その報告書の中身のみの判断に自分自身の責任を限定しょうとする
傾向があり「他部署からの報告に基づく自分の判断の中身が結果として良かったか
悪かったか」には興味が無く(もし興味があれば判断の前提となる他部署からの報
告書が正しいものかどうか自分の目や耳で再三確かめなければ恐くて判断が下せな
いものである)逆に出来るだけ自分の判断を小さくするために、他部署に自分の判
断に都合の良い追加資料を提出させるなど「判断が誤った場合の責任逃れの体制」
を作るのに熱心であり、出来るだけ自分自身の目と耳だけで判断を下すのを避ける
傾向にあるのであります。
したがって物事を区分したり区別したりして個々別々に対応し判断する訓練が全く
出来ていないのです。
それがエリート同士の責任の持たれあいに基づく大きな間違いを起こす結果になる
のです。

非エリート層は毎日のように自分の目と耳だけで区分し区別し判断して対応してい
ると言うのに。
さて昭和20年の終戦時25歳以上の大学卒のエリートは「戦陣訓」を胸に士官と
して兵隊を指揮し、若くして兵とともに運命共同体として戦場で戦い戦後は価値観
の大変動にとまどいながら日本復興のエリートになったのであります。
したがってこのエリートは壮絶な戦場で「精強な非エリートである一兵卒の実力を
生死を賭けて目の当たりに身をもって体験し理解したエリート達」であると同時に
その後の価値観の大変動の中、ふたつの全く違う価値観を経験した為に「自分自身
の判断が常に正しいかどうかを疑い自問自答する謙虚な態度をとったエリート達」
になったのであります。  ところがこれらの実体験を持つ謙虚で優秀だった日本
のエリート達は昭和55年頃を境に年齢が60歳以上になり日本の第一線から退い
てしまったのです。     ここからが実体験が無い事がどれほど恐ろしい結果
をもたらすかの自覚が無い「実体験を持たない謙虚さの意味を知らないエリート達
が日本の第一線に躍り出てしまったのです。」

民間のエリートは外部競争条件によって常時経済戦争という競争の中に叩き込まれ
ているので、それなりに実体験を経験し、競争に勝ち残り自身の会社の業績が悪け
れば否応無く淘汰の波にさらわれてしまうので悪いエリートは自動的に淘汰される
のであるが、競争が無い世界に住む公的なエリートは選択や淘汰が働かず「謙虚さ
が無くなると逆淘汰現象」によって組識維持を優先する悪いエリートが組識内で逆
に優先され「国民の幸福のため」という目的意識が薄れてしまうのです。
そのような時期から消費税問題が日本で議論されるようになったのは偶然ではない
のです。
つまり現場や現実を知らない謙虚さの無いエリート程困った者はいないのです。
一律に課税される消費税は「利己的遺伝子」にとっては「罰金」と同義語であり課
税される消費を可能な限り減少させようとするようになると予測した非エリート層
では当たり前の心配を謙虚に聞こうともせず強行したことが問題だったのです。

民主主義が普遍的に定着しているのは、少数のエリート層の判断よりエリートを含
んだ多数の非エリート層の判断の方が正しいことが多いとする事実が真であるとい
う原則に基づき運営されているわけであります。
選挙に当選したからといって全ての物事の決定に選挙民が白紙委任状を議員に手渡
したわけでは無い(当選とは国会で議決する資格を国民が与えたに過ぎない)ので、
アメリカのように常にその問題問題に応じた世論に注意して物事を決定しなければ
ならないのに、消費税の導入時世論の7−80%が導入反対なのに無理に導入した
ことがその後の政治経済の大混乱の始まりだったのです。

お墓の下のマッカーサーから「やはり日本人の精神年齢は12歳」と言われそうな
気がしています。
したがって重要なのは「何に」「どのようなやり方」で課税するのが最も経済成長
にとってまた人間の幸福にとって望ましいのかを区分や区別をして判断するのが重
要になるのに謙虚にその当たり前の事を議論しなかったことが今日の事態を招いて
いるのです。
「政策を導入するとき最も重要なのは、第一にその判断・政策による未来を出来る
だけ正確に予測することであり、第二に目的と手段とを取り違えないこと。
特に最終目的を明確に意識すること。 第三に原因と結果の因果関係をしっかり把
握する事である。
そして第四に予測通りに良い結果が得られない場合方向変更する勇気を持つ事」で
ある。
  特に目的と手段の取り違いは常に起こりやすく、卑近な例をあげれば、
お金を人生の目的にあげる人が多く、本来は「自分の幸福」が最終目的であり、お
金は「手段」であるはずなのです。
さらに「区分・区別問題で重要なのは教育問題であります。」
一人の人間が「自分の意志で自由奔放に非合理な行動で何でも自由に決められる消
費者の一面と所得を稼ぐために合理的な行動を求められ社内の規律を求められる労
働者の一面」「人間の本来持つ豊かな感情に基づく非合理な行動をする家庭人と利
益を追求するために合理的な行動を求められる企業人」など一人の人間がいくつも
の正反対の感情を求められ置かれている立場で人間はそれを使い分けその場に応じ
て全く違うルールで行動せざるを得ないのです。
したがってこれらが錯綜して混乱しがちな価値観を若いうちから少しでも正しく理
解するために「少数の共通ルール」と各立場における変化しなければならない「立
場立場におけるルール」を教育現場でごちゃ混ぜにすることなく、区分し、区別し
現実に応じて教えることが望まれるのです。 これを適正に行わないと現実に柔軟
に対応できる真に大人の人間に成長出来ないからであります。
日本人の若者の幼児性は、場合によっては教育現場における、人間に必要な「二重
価値基準の立場立場における柔軟な区別適用を教育せず」「単一価値基準のみを教
育しその単一価値基準の弊害の教育を徹底して行わないこと」に求められるかもし
れません。   人間の個性や多様性が求められる現代においては、道徳という一
本化された精神論も必要とは思うが、まずは物事を区分し区別して現実に即した立
場、立場における現在適用されているルールを現実に即してわかりやすく教育する
ことが望まれるのです。
最後に区分、区別と犯罪で問題となるのは作為犯と不作為犯の問題である。
重要な犯罪を見て見ぬ振りをすることが、不作為犯として自分も犯罪に問われるの
だということを教育現場で教えなければならないのです。
なぜならそれを知らないために見て見ぬ振りをすることが自分の身を守る最善の方
法と勘違いしている人が多くなっている現実があるからです。
自分自身で直接仲裁に参加しなくても、助けを呼んだり、止めるよう説得したり、
警察に通報したり一人の市民としてやるべき事をきちんとやるよう教育すべきなの
です。  これ以外にもアメリカのような多民族国家では日本のように罰則の無い
単なる道徳と考えられている多くの事例が法律として法制化され、罰則が適用され
る事例が極めて多いのです。    つまりアメリカは良き道徳を国民に守らせる
為積極的に「道徳の法律化」を図っている国なのです。
しかしセルフディフェンス(自己防衛)問題つまり自己責任の分野については相反
する原則がぶつかり合う分野であり、我々が危険と思う問題も思いのほか規制が緩
いのがアメリカの現実なのです。



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