(理論の追加的根拠と進化システムへの方向性)

本書では素人でも判断できるいくつかの疫学的判断による「仮説理論」を設定し「事
実」と対比させながら出来る限り科学技術の根本的推論方法である帰納推論で本書
を記述しました。
本項のうち仮説については私なりに帰納推論をもとに疫学的に考慮致しましたが、
演繹推論で構築されたものではありません。
演繹的論理性については今後の研究者の方々に委ねたいと考えています。
1−1.経済学や経営学は「無」から「有」を生じさせる学問でありそれが本質で
あります。(仮説)
まだ世界中の大部分の国がわずかな資産で貧しい生活を送り、車も飛行機もなくビ
ルも無い1750年前後のイギリスにおける産業革命(日本では幕末)以来わずか
250年間の経済学の発展とそれを支えた科学技術の進歩が、数億台の車と飛行機、
超高層ビルが無数に林立する社会や整った住まいや個性的な生活や国、企業、国民
に膨大な資産と莫大な富や資本を生み出したのであり、正に「無」から「有」を生
み出したわけであり、その本質と根本をもう一度かみしめる必要があるのです。
経済の発展は生物の増殖と酷似しており、卵(所得)が先か、鶏(消費)が先かの
議論は不要であり、必要なのは繁殖条件・進化条件(システム)を整備することで
あります。
つまり経済についても進化・発展条件を整備することが最重要課題になるのです。
卵が先か鶏が先かの議論は「生物誕生の瞬間」だけの議論に必要なだけであり、そ
の後の進化発展・繁殖には全く必要のない議論だからであります。
経済的に見れば、ある国の経済がテイクオフ(離陸)する瞬間までには必要な議論
になるでしょうが、テイクオフしてしまえば所得が先か消費が先かの議論は全く不
要な論議になるのです。
第二次世界大戦後の焼け野原で日本は国も企業も国民も無一文、無資産になってか
ら、わずか43年の昭和63年にバブルの絶頂期までに達し国民も企業も国も膨大
な富を手に入れ、アメリカを凌ぐ世界一の経済大国になった経緯を考えると、広大
な他国を植民地として獲得したわけでもなく、南方の資源国を軍事力で支配し原材
料を確保し、さらに製品の販売先も軍事力で確保したわけでもなく、ただ戦前より
はるかに狭い日本国内で国民が努力し、自ら本能の赴くままに生産したものを消費
して達成したものであり、国連やアメリカから援助してもらったものは全て完済し、
逆に他国を援助する側に回ったのです。
つまり卵(所得)が先か鶏(消費)が先かの議論は根本的に重要ではないのです。
ただこの時期が経済の発展・進化条件(システム)つまり日本の経済の進化・繁殖
条件がヨーロッパに比べてさらにアメリカに比べても整っていたたけの話なのです。
これをヨーロッパ並の成長・発展力に落とし込んだのが、ヨーロッパ型消費税の導
入であり、経済の良好な発展・進化条件を放棄し悪化させ同時に高失業率政策も導
入してしまったのです。
そして日本の成長力の低下にともない、競争状態にあったアメリカ経済が急速に回
復してきたのであります。
さて消費は消費者がその商品の生産に努力した多くの第三者の人間へ所得を稼得さ
せるという利他的結果をもたらすことがその本質であり、これを理解すれば消費が
経済の拡大に極めて有用であり、逆に消費を規制することが経済的には元より道徳
的にも如何に危険なものか理解頂けると思います。
つまり「寄付」は「究極の消費」でありこの意味でも消費を規制してはならないの
です。 そして所得獲得行動は自ら一人のみの金銭所得を獲得する利己的結果をも
たらすのみであり、これを自由放任にすることは資本主義経済では結果として不平
等と利己的結果のみ模索する社会をもたらすので経済的に元より道徳的にも規制が
容認されるのであります。
資本主義経済体制下では利己的行動である所得獲得行動が直接税によって規制され
国はそれによって税収を得て本人に成り代わって世のため人のため利他的行動を行
うのであって人間社会では利己的行動と同時に利他的行動が正に求められているの
です。
世界の投資家が唯一先進国の中でヨーロッパ型消費税(大部分の消費に罰金を課し
消費を抑制する)を導入せず、小売業種のみに限定した物品税としの小売売上税(小
売業・飲食業での消費に限定した規制)は存在するが、それ以外の産業には全く課
税せず、あくまでも直接税中心である所得税制中心のアメリカしか今後の成長はあ
り得ないとして日本を始め世界の資金が運用益を求めてアメリカへ資金が集中した
ことがアメリカ経済の急回復につながったのであります。
つまりアメリカでは全産業を対象にした消費規制税制を採用しておらず、「資本主
義の弊害である所得の偏在の発生を防ぎ消費を促すため所得に罰金を課す所得規制
税制を堅持しながら高額所得者を中心に民間寄付(税に替わるもの)の社会慣習を
醸成し民間福祉の充実政策」(私の感想では所得規制税制では昭和63年以前の日
本の税制の方が遙かに徹底していた)
を遵守しており(但しアメリカの新政権は所
得規制を緩和しようとしていますが、これが吉と出るか凶とでるか未知数です。)、
大企業に対する独占禁止法の厳格適用と合わせて自由主義的資本主義の基幹システ
ムとして位置づけ活用しているのです。
さて経済的にアメリカの目の上のコブであった日本が税制を改悪し経済運営に失敗
し、アメリカがしっかり経済を運営したことがアメリカの好況の原因なのです。
人類はニュートンが何故リンゴが地面に落ちるのかという疑問から万有引力という
重力を発見し人間は1Gの等加速度直線運動の系の中に存在するだということを発
見しその精緻な理論は「哲学的な決定論を科学的に盤石なものにした」ものであっ
た。
それからしばらくしてダーウィンが進化論を発表し「神の創造せる人間と信じられ
ていた人類の存在そのものの起源」が大問題になったのであります。
さらに人類にアインシュタインは相対性原理に基づく E=MC2 つまり(エネル
ギー)=(質量)x(光速度の二乗)という公式で物質とエネルギーが等価である
ことを証明し、物質の質量が消滅すると大きなエネルギーへ変換されるという驚く
べき結果を実験から発見し、太陽の核融合反応による莫大なエネルギーの実態と原
子力エネルギーの事実を証明しました。
さらにニールス・ボアを頂点とする素粒子に関わる量子論を展開するコペンハーゲ
ン学派の中からハイゼルベルグが「不確定性原理」を発表しニュートン力学から発
展した「哲学的な決定論を相対性原理ならびに量子論がさらにダーウィンの進化論
が徹底的に覆し、この世は決定論が全く通用しない世であることが確認され」物理
学や生物学が哲学の根本に与えた影響は計り知れなかったのです。
これらの科学的成果から人間の他の生物には全くない「過剰性」という単に生きる
ため以上のものを求め続ける人間の特性と「進化」が結局「経済の過剰性に帰着す
る」ことが立証されたのであります。
そして人工進化システムである科学技術は必ず進化し結果として「国民一人当たり
の生産による供給は等速度か等加速度運動的に増加」するのであります。
そして人間はこれを従来の嗜好を維持しながら新しもの好きと好奇心を持つという
人間独特の性質によって「国民一人当たりの需要としてこれを受け入れ消費を等速
度か等加速度的に増加」する特性をもった生物であり、これこそが人間の経済の過
剰性の拡大なのであります。
つまり人間は過剰性の拡大を身にまとい、過剰性の拡大を食べ、過剰性の拡大の中
に住んで過剰性の拡大を楽しみながら生活し、そして過剰性の拡大を生産して、そ
れを消費することによって所得が分配され賃金を得て生活しているのであります。
「正にカネは天下の回りもの」の真理が働くのです。カネが動くたびに税金を取っ
て規制するようなカネの動きを鈍らせる制度は採ってはならないのです。
そしてそれらを円滑に運ぶため触媒として貨幣が存在し、この仕組みである供給と
消費(需要)を相互に合致させるべく微調整するのが金融政策と財政政策なのであ
ります。
この原理原則から導かれる結論は経済の過剰性の拡大は科学技術の進化から必然的
に生じる供給増に対して、これを受け入れて消化しなければならない消費を規制す
ることは相対的に供給過多になり、必然的に失業が発生するため人間は生き残りを
賭けて熾烈な競争を展開し、結果としてゆとりのない心貧しい生活に陥るのであり
ます。
したがって消費の規制は必然的に需要と供給に不均衡を生じ「不況を発生させる原
因になる」ので決して行ってはならないという「第一法則」と、「経済の過剰性の
拡大の方向性の制御は国民の意志による科学技術的成果の規制と促進によるべき」
という「第二法則」が導かれるのであります。
「一国の経済政策の要点は消費を規制しないこと、科学技術的成果の方向性を規制
したり促進したりしながら供給の方向性をコントロールすることの二点に絞られて
くるのであります。」

最後に人間の科学技術から得られている最大のものはエネルギー問題であります。
人類は現在C+O2−>CO2 の化学式と核分裂反応エネルギーという地球温暖
化問題や核分裂廃棄物問題を抱える比較的ダーティーなエネルギィーに依存してい
るのです。
これが将来的にはH2+O−>H2O の化学式と太陽エネルギーというクリーン
なエネルギーか又は核融合反応エネルギー(太陽エネルギーと同じ原理)への変換
を急がなければなりません。
いずれにしても現在の科学技術の進化のスピードからみれば、今後50年―100
年以内にこれを達成できることは確かであると予測しております。
ドイツが原子力発電所の全廃計画を発表したことは果たして正しい選択なのか、そ
れによって現在の技術における火力にさらに依存することで緊急な地球温暖化が防
止出来るのかの根本的疑問を私は持っています。
また元々太陽自身熱核融合反応という原子力エネルギーによって、我々は太陽から
恩恵を受けているわけであり、さらに言えば我々が生きている宇宙自身さえ殆ど全
てが熱核融合反応と核分裂反応という原子力反応から出来上がっているといっても
過言ではなく、その意味で原子力自身はまさに副作用が大きいとしても人為が加わ
ったとしても根本は「自然的なものを原理としている」ことは事実だからでありま
す。 (もちろん熱核融合反応は自然的なものでありますが、核分裂反応を自然的
なものと言えるかどうかについては異論はあるでしょうが)
したがって50年―100年以内程度に太陽エネルギーなどのクリーンエネルギー
に全面転換が可能な技術がコスト的にも発達して「すでに気象異変として世界的に
深刻な被害を及ぼしつつある化石燃料の燃焼による二酸化炭素排出の全面廃棄出来
る50-100年間のつなぎ」として、原子力発電問題が二酸化炭素排出しない大量
発電の一つの選択肢になる以上、タブー無しに現在の原子力政策の全てにわたって
研究者達の真摯な実証的な各方面からの検討が為され、その上で国民的議論がなさ
れ真に人間の役に立つ実証的な結論が出されることを期待しております。
そして科学技術の進化が物理学に革命をもたらしたと同じように個人の「所得収入
=消費支出+非消費支出+貯蓄支出」という既知の簡単な法則を踏まえてさらに詳
しく内容を検討分析していくと「消費支出+非消費支出(税などを通じて市場へ、
つまり大きな目で見れば消費に該当する)+貯蓄支出(結局企業の設備投資へ回り
市場へ)の合計額が企業の売り上げに変換され、またそれが労働者の所得として全
額還元される」自己回帰的な関係にありさらにこの公式の中で「貯蓄支出は伸びて
もこれが個人消費の増加に依存する企業の活発な設備投資に結びつかなければ所得
として還元されないので大問題になるのであります。」
結局の所、根源的には人間の消費したいとする本能に操られる「商品とサービスの
個人消費支出が等速度または等加速度で増加」するたびに「所得も増加する」連続
的自己回帰的共鳴現象を起こすのが経済成長とか経済発展と称するものなのである
ことを理解することであります。
なお貯蓄過小であると企業の設備投資資金が調達できず供給力が増加できず、やは
り景気に悪影響が出るのです。
したがって消費と貯蓄の比率は金融政策で調整するのです。
なお税などの非消費支出も必ずそれは政府支出として全額市場に流出するのであり
ますが、それ自身は自己回帰的に増加する力が弱く還元要素として所得に増加還元
され金額が弱々しい増加にとどまるだけなのであります。
それであるからこそ租税負担率や国民負担率の高い国家は実質消費支出に回す資金
が乏しくなるのでその増加額は弱々しく経済成長は低くならざるを得ないのです。
しかも税の直間比率のうち間接税比率の高い国家ほど国民一人当たりの国内総生産
が低く直接税の比率が高いほど国民一人当たりの国内総生産が高くなるという当た
り前の結果がジョンズ・ホブキンス大学経済学部助教授をへて大阪大学社会経済研
究所教授の八田龍夫氏の著書「消費税はやはりいらない」をはじめ少数ではあるが
心ある学者が定量的に正確なデーターで各国を比較しているのであります。
定量的データーについては私には分析する知識も能力も時間もないのでそれらの著
書を参考にして頂きたい。
したがって消費税は「需要の根本的な増加エンジンである個人消費支出」を規制し
増加を妨害し結果として企業の供給力も規制し妨害する結果をもたらす税制の本質
を持つので経済成長の深刻な阻害要因になるため特に日本では全廃すべきなのです。

1−2.さらに「消費」を「浪費」かどうか議論するのは極めて難しいと考えてい
ます。(仮説)
つまり人類の経済活動における「過剰性」は、他の動物とくに人類と近縁の類人猿
と比較しても極端に膨大であり、全てが浪費そのものと言って良く比較にならない
からであります。
浪費かそうでないかの議論は価値観の多様な現代においては、難しく強いて言えば
「消費が倫理性を逸脱したときに浪費と定義する」ことは可能と考えています。
エンゲル係数は1857年エンゲルによって提唱された家計の消費支出に占める食
費の割合の所得水準毎に一定の法則性があることを発見したことに端を発していま
す。
1895年のベルギー労働者家族のエンゲル係数は第一階級71.4%から第五階
級64.9%までとなっており平均68.2%となっており、1999年の日本の
勤労者は22.5%となっている。
とすると1895年のベルギーの労働者と1999年の日本の勤労者の過剰性の拡
大は68.2%−22.5%=45.7%となり、消費支出の45.7%は当時の
消費支出より過剰な支出を現在の勤労者は行っていることになります。
つまり浪費の概念の定義の難しさはここにあるのです。
現代の食費22.5%でさえ、さらに古い縄文時代や弥生時代より遙かに浪費的で
あり、現代の消費支出は当時の必要消費レベルと比較すると浪費そのものと言って
良いのです。
もし衣食住の生活レベルが縄文・弥生時代で良いと仮定し、生産設備が現代的に整
っていると仮定すれば、当時の需要・消費を満たす為には労働人口は多く見積もっ
ても、全人口の25%以内で十分であり、失業率は75%以上になることは確実で
あります。
つまり我々は正に経済の過剰性という消費と定義するか浪費と定義するか分かりま
せんが、これがなければ生活出来ない動物なのだということなのです。
そしてこの個人消費の本質は消費を所得に変換して生活している人間の本質につな
がり、結局のところ人間同士の所得の分配行動(つまり助け合い支えあって生活し
ている)がその本質なのだということなのです。
ここにどのような消費も単純に浪費と断定できないのです。
しいて言えば国民の幸福の追求に反する消費は浪費なのかもしれないのです。

2.成熟経済においては国民的議論が速やかに結論に収斂し、国民大衆の判断が的
確に為されるルールを明確化することが、国論が分裂せず長い無意味な異なった前
提による議論を防ぎ、今後の経済発展や社会の発展に不可欠な要素となります。
そこで「全ての国の制度基準がシングル・スダンダード(単一基準)ルールになる
よう全面的に改善すること」が緊急で且つ息の長い努力が求められます。
つまり制度の「全ての結果の利害得失を負担したり利益を得たりするのは、国民大
衆である以上国民大衆がわかりやすく理解しやすい制度つまり直感的に理解しやす
い制度にするためには理念理念によって分かれた複雑な制度や属人的要素毎に分か
れた複雑な制度は全て改善し全てをシングル・スタンダード(単一基準)ルールで
処理する方向へ改善するべきであります。」
そしてシングル・スタンダードルールの適用除外は「国民大衆にとってシングル・
スダンダードルールの適用除外が明らかに国民大衆の利益になり役に立つと国民大
衆自身が判断したときに限るべきなのであります。」
このことは国民大衆への情報公開制度との組み合わせによって、さらに国民大衆の
望む社会経済体制への進化の原動力になるとともに、国民大衆に支えられた機能的
で強い国家の建設に役立つからであります。
現在の日本の制度にはエリートの考え出した抽象的な基準によって驚くほどダブル
・スタンダード(二重基準)ルールやトリプル・スタンダード(三重基準)ルール
がはびこり過ぎて、直感的に理解が難しくわかりにくくその部分部分の前提を理解
すればその部分は理解できるが全体を通じて理解しようとすると均衡のとれた理解
が難しい制度が多すぎます。
例えば公会計ルールの国民大衆へ普及している私会計ルールへの一本化、公企業と
私企業のあり方、公務員のみへ特別に適用されている贈収賄罪の私人への適用など
あらゆる人間に均衡を失せず価値判断が分かりやすい日本を作ることが結果として
何が良くて何が悪いのかを国民大衆の目の前で明らかに出来るので、国民大衆の判
断を求めやすい体制が出来るからであります。

3.経済の本質は「需要(消費)無くして供給(生産)無く、供給(生産)無くし
て所得無し」
これが経済の本質なのであります。
つまり経済の出発点は「需要」が全てであり、需要には膨大な潜在需要と消費とい
う顕在需要があります。
消費税の危険性は経済成長の原点である消費に対して継続的な「強い消費規制効果」
があることなのです。
その意味では消費税は潜在需要を消費という顕在需要に転換する際、強い規制効果
があり、消費に対する直接規制税制であり、それに対して経済的にみれば所得税は
消費に対する直接的な規制税制ではなく、同一課税額でもその消費規制効果は全く
ない税制でありやり方によっては消費促進効果まで発生することが出来るのです。
住宅ローン減税や設備投資減税の活用などはその典型で消費を促進させ過ぎてバブ
ルが発生する場合も生じるほどです。    
所得規制税制では消費を全く規制せず、税率を高めると法人所得税のような場合消
費が費用として損金として認められるので、法人税を節税するために消費促進効果
さえある税制なのです。

4.アメリカの独立宣言で述べられているように「政府の権力はそれに被治者(国
民大衆)が同意を与える場合にのみ、正当とされる」という現代民主主義の究極の
理念が「その時々の世論を重視するアメリカの政治スタイル」として確立されてお
り、常に意識されているのであり、これが国家の進化・発展の基本条件なのであり
ます。
この考え方は国の活動の「受益者である国民」と「直接間接の国の活動への経費負
担者である国民」が「自己回帰型」の関係にあたり、「人間システムの進化論」に
ぴったり適合しているのであります。
そして「自己回帰型」が良い進化を行うためには「継続的に自己回帰の都度良好な
善悪・適不適の判断(淘汰)が為されるとき」進化発展が達成されるのです。

これは企業に対する経営学の計画−実行−評価の経営サイクルと全く同様なのです。
つまりこの経営サイクルに、さらに適切な判断が出来るルールつまり誰が判断者に
なり誰の意見を聞くべきかのルールやどのような判断が適切な判断かを決めるルー
ルを付け加えれば完全な進化システムになるのです。
そしてその要諦はキリスト教の原点である人間の原罪である「神の教えに背きアダ
ムとイブが善悪を知る木の実を食べた」という善悪の判断という最も難しい問題を
神ではなく「国民大衆の判断の総和」で行うのが「最も正しいことが多い」と言う
実証に基づき成り立っているために、真の民主主義が発展しているのであります。
「善悪」の判断こそ最も困難であり、且つ最も必要なものであるが故にこの判断の
ルール作りこそ人間社会で最も求められるものであります。
したがって仏教の教えである「因果律・輪廻」と「諸行無常(常無く、移り変わり
ゆく世界観)」とは民主主義とも人間システムの進化論とも完全に合致しているの
であります。
つまり全体主義的独裁国家や真の共産主義国家のように一旦エリートが決めたこと
を徹底して実行するという思想は非自己回帰型であり非進化論的、非民主主義的で
あり、人工的であり、不自然で非宗教的なのであります。


5.近代民主主義では個人意志の尊重とその総和をもとに全ての概念・仕組みが組
み立てられている。
個人意志の尊重は「契約概念」はもとより「進化システム」の基礎概念であるから
であります。
国民に判断を求めた場合、国民の個人意志は誰にも束縛されず、誰にも影響されな
いときに限って良い判断ができ、その全員の総和は無数の判断の選択肢を提示する
としても、一番多い選択はほとんど誤り無くその時点の正しい判断を指し示す。
これが民主主義の原理であり、これが事実だからこそ、大衆主導の実質的民主主義
国家は発展し、一部のエリートによって国家が統制されるエリート主導の形式的民
主主義国家は正しい判断を選択できないことが多いため誤りが多く進化が遅く停滞
するのです。

そして一握りのエリートに国家が主導される真の全体主義国家や真の共産主義国家
は長い時間が掛かっても内部要因、外部要因によっていずれは淘汰されるのです。
これは「みの・もんたさん司会のクイズミリオネア」における挑戦者の回答補助手
段におけるオーデエンスという会場参観者160名(アメリカのように政党や派閥
に束縛されない独立性の高い国会議員と仮定)の判断に回答を委ねた場合の特殊な
問題を除いた正解率の高さに民主主義の原点があるのです。
つまり1000万円の賞金を求めて挑戦者は勉強に勉強を重ねたエリートでありま
す。
ところがそのエリート挑戦者が回答に行き詰まった場合、互いに独立した160名
の会場参観者(アメリカのように政党や派閥に束縛されない独立性の高い国会議員
と仮定)の選択問題の回答を単純集計するとその一番多い選択の正答率は非常に高
いのであります。
つまりエリート挑戦者が行き詰まる問題さえ、大衆の一員である単なる会場の参観
者(もちろんクイズに興味のある人達でしょうから少しは知識レベルは高いでしょ
うが)が160人集まった上、相談しあわなくて、独立させて総和を出せば非常に
高い正答率が得られるのです。 これが民主主義の原理なのです。
「相談しあうことで、一人の意見つまり一つの回答に無理に集約しようとしてかえ
って失敗するのであります。」「正解を知る人が誤答でないかと思い悩んだり他人
まで失敗に巻き込むことを恐れ発言せず、逆に正解を知らない肺活量の大きい無責
任な誤答者が全員をリードしたり、時間切れになったりして」正答率が著しく落ち
るのであります。
つまり正しい答えを得るには「回答者個人個人を誰からも束縛されず、誰からも影
響されない環境を作り出しその個人個人の回答の単純集計で最も多いものを正解と
するのが最も正答率が高くなるのであります。」
相談することや協議することは知識の収得に大変役立ちますが、最終判断は相談し
て一つに意図的にまとめることは非常に危険が伴うのです。
一つにまとめる作業では、人間の力関係や先入観がそこに入り込む余地が出来てし
まうからであります。

この番組は最終判断を下す場合の民主的手続きの見本を提供してくれています。
この点日本の国民大衆や若者の多くが「自由」と「平等」が不完全であっても他国
と比べて一番実現しているアメリカへ直感的に実際的に惹かれている(アメリカ信
仰と呼ばれている)のは、極め正しい反応と行動なのでありエリートがこれを批判
するのは、彼らが本質を見抜いていない証拠なのであります。

6.国の基幹システムへ進化システム導入の必要性と進化システムにおける淘汰の
意味
(1)国は国民という人間の集合体であり、その発展は国の基幹システム(基幹的
な法律・制度)が「進化システムの時に限って」システムは「進化・発展が強力に
進み」「頑健で継続性があり」「良い改善・変異を全て素直に取り入れる体制が出
来あがっており」「時代に柔軟に対応する」性質があります。
この場合には経済が発展するのに合わせて社会も発展するのです。(日本国憲法が
正にこの進化システムによって作られておりますが、日本国憲法を実効あらしめる
ための他の基幹的法律や慣習に各種の問題があります。)
この場合システムは出来るだけ人間個人をフェアーな自由と対等な平等に取り扱い
個人の意志への影響力行使や束縛を行わず、結論を出す競争の過程(ルール)のみ
を厳格に制定することが重要である。
日本の基幹システムには進化システムの基礎的要件である「アメリカ流のフェアー
な自由、対等な平等」を厳格に遵守していない場合が多いのです。
この点を抜本的に改善しなければ日本の進化、発展は遅れ、この問題は「経済的に
は消費を強制的に規制している消費税問題」と「政治的には国会議員の自由な意志
を阻害している日本の政治システムである政党問題」おいて非常に問題が鮮明に表
れており、絶対に改善する必要があります。
また職業には貴賤が無く、しかも誰でも「平等に市場に参入出来なければならず」
またどの業種でも企業の大小を問わず等しく行政の恩恵を受けられるようにしなけ
ればならないのです。
これが国民へ各種各様の働き場を与え、個性ある色々の仕事に従事する人間を育て
る要諦なのです。
IT、ITと特殊な分野に余りに力を入れすぎ、その分野だけ成長すれば経済が成長す
ると考えることは全く誤りであり、「公正な競争(協同)の中から」全業種の自然
な成長発展、自然な生き残りを暖かい目で見守り国民のあらゆる個性を発揮出来る
場を確保する姿勢が重要なのであります。
消費税でIT以外の全産業の個人消費の増加を妨害しながらIT産業のみに力を注
いでも全体の経済成長は落ちるばかりなのです。
IT産業は全産業が増加傾向にある時にこそ、その進展が経済にとって役に立つか
らであります。
そのような雰囲気の上での「IT」への促進策は必要ですが忘れてならないのは国民
の幸福にとって「IT は手段の一つにすぎず目的ではない」点を常に肝に命じ無け
ればなりません。
(2)淘汰とは事実としての最悪の排除であり、最善の選択ではない。(仮説)
その時点の事実として実証された最悪部分を遠慮なく排除しながら、より確実に歴
史的連続性をもつて最善へ微分的積分的に近づく過程を「淘汰」というのでありま
す。
したがって最初から最善のものを得る必要が無く(また神でもなければ未来の最善
は見抜けない)、淘汰のサイクルを通して最悪を排除しながら「普通のものは全て
生き残り環境に適応するために改善を続け」事実として最善に近づく方法が淘汰な
のであります。
もちろん突然変異の新システムを導入することも考えられるが、この新しい変異は
従来の旧システムとの現実の競争に勝たなければ新システムとして勝ち残れないの
です。 つまりより良いものしか生き残れないのが進化システムなのです。
消費税は特殊性のある日本においては生き残れないシステムです。

7.間が関与する経済社会も「自己回帰型」の時に進化システムが働く。(仮説)
例えば経済は人間が生産し、人間が消費する「自己回帰型」であり、自己回帰型だ
からこそ不必要な規制さえしなければ「自ら発展も、変化改善も、増加も」自ら努
力すれば望むとおりに進化・発展が可能なのであります。

これは人間には自分自身幸福になりたいという強い欲求の本能が備わっており、現
状維持に止まりたくないという感情を心から願っているからであります。
また国のような組織体でも良い政策を実行できれば必ず良い成果があがり、悪い政
策を実行すれば必ず悪い結果しか生じないのであります。
これは仏教の律法に言う「輪廻」や「因果応報」に相当し、人間の生きる現世は「自
己回帰型」が特徴であり、良いことを継続して行う人間には良い結果がもたらされ、
悪いことを継続して行う人間には悪い結果がもたらされるという教えと同じなので
あります。
そしてバランスの取れた金銭感覚が無いという点で全く異なったタイプと考えられ
ているドケチと浪費家は全く同じなのであります。

このように考えていくと全く異なった極端に異なった思想や哲学も実は調和がとれ
ていないという点で全く同一であることが分かります。
そして調和がとれていないという事は何を意味しているかというと実は国民大衆の
平均値の考え方とズレていると言うのが実態なのです。
したがつて表現の自由や報道の自由や情報公開の中で常日頃情報を適切に取り入れ
ている国民大衆と同じレベルの考え方を持っていれば、個人個人の人間の考え方に
は差があったとしてもそれら多くの人達の意見を総和すれば、その中で一番賛成が
多い意見が正しいのです。

8.科学技術は進化システムそのものであり、生産手段の進化と生産の無限の増大
をもたらす。
科学技術の進歩には人類の発明した言語という物での記録性があるため人間の遺伝
子と同じ作用をもたらし、次世代にも技術は必ず伝達されるため、退歩が無く進化
進歩のみがあるのです。
したがって生産現場で働く人たちの不断の努力と合わせて、生産性は向上のみが存
在し、災害など外的な要因が無い限り生産性は減少することはあり得ないのです。
また科学技術によって次々と新商品が開発され、消費者の選択肢は増加する一方で
あり、減少は無いのです。
石器時代の人類の「消費の選択肢」は粗末な食物、動植物性の簡素な衣服、簡単な
住居しかなかったのですが、現代の人類の「消費生活の選択肢の増加速度」は驚く
べきものであり、科学技術の進歩と人類が根本的に持つ好奇心と生き残りの本能に
よって今後ますます個性化し重層化し多様化し複雑化して増加していくものと確信
しています。
そしてこれは未来永劫人類が存在する限り誰にも止められないのです。


9.経済の過剰性について拡大の方向性を良い方向へ導くのが、人間の役割なので
す。(仮説)
経済の過剰性の拡大と言うと人間が何か余計なことをしでかし地球環境に良からぬ
ことをするのではないかとの考えもあるかもしれません。
しかし人間の進化に基づく過剰性の拡大なくしては、一人一人の人間が実質的な「自
由」も「平等」も「幸福」も「文化」も得られないのも事実なのです。
したがってこの人間の経済の過剰性の拡大を良い方向へ導く努力こそが真に人間に
求められているのであり、人間の本能と知性の選択によってその拡大の「個別の方
向性の徹底した規制」を行いながら地球環境を維持すべきであって、その「拡大の
進歩を全面的に規制したり、遅らせたりする試み」は、「自由」と「平等」と「幸
福の追求」を求める人間性そのものへの規制であり、良い結果は生まれないと確信
しています。
そして人間には種の保存本能が備わっている限り、人間は常にその時代その時代に
おいて生き残りを模索し自ら滅亡の道を選ばないと信じています。

10.個人消費こそ人間(家計)が企業(生産)へ行う消費の対価としての企業に
対する「分配行動」であり文化の発展の根源であり、また個人所得こそ企業(生産)
が人間(家計)へ行う労働の対価としての「分配行動」なのである。(仮説)
そして個人消費は規制が無い限り、潜在需要を顕在需要として達成したいという人
間の強い欲求が原因となり、時代時代に合わせて無限に増大します。
そして人間と企業間の相互の分配行動は基本的にはシンクロし共振しながらスパイ
ラル状に「人間の需要増の欲求という本能」と「人間の好奇心という本能」に支え
られた「需要増と科学技術の発達による労働生産性の向上」に支えられ規制が無い
限り自然的に増大・増殖してゆきそれを国家が貨幣の増発を行って支えるのが経済
の発展なのである。
図式を単純化して企業概念を排除して理論構成をすれば、結局残るのは「消費者と
しての人間」と「労働者としての人間」の存在だけなのです。
そして人間が何を選択し消費するかという分配行動こそが、人類の文化発展の方向
性と進化を支える基礎となるのであり、消費に規制が許されるのは「その規制が人
間の生活にとって真に役に立つ時にのみ限定されるべきなのであります。」
全ての消費を規制すると人間から企業への分配が減り、同時に後に述べる等価理論
により企業から人間への所得分配も同額減り、リストラや高失業が発生するのです。
人間の世界では人間自身の消費がエサ(所得)になるのです。
ここに人間の持つ過剰性の必要性と「消費の深遠な意味」を我々が良く理解してお
かなければならないのであります。
つまり消費こそ人間の文化を発展させた全てであり、基礎なのです。
自動車産業の発展も、飛行機産業の発展も、IT産業の発展も、音楽産業の発展も、
福祉産業の発展も、医療産業の発展も全て人間の消費行動によって支えられ文化と
して発展し定着し進化していくのです。
消費税は人間にとって正にこの発展・進化の阻害要因なのです。


11.人間の個性は100人100様である。
陸上100mの世界記録保持者は、なかなか200m世界記録保持者になれず、2
00mの世界記録保持者と言えども400m世界記録保持者にはなかなかなれない
ものである。
陸上、水泳の各種競技、各種球技、各種レース、各種ゲーム数え上げればその才能
差はキリがありません。
さらに職業となると農林水産業、鉱業、建設業、製造業、電気・ガス・水道業、運
輸・通信業、卸売業、小売業、飲食業、金融・保険業、不動産業、各種サービス業
など数限りなく、各人の望む個性を発揮できる場を出来るだけ与え活躍させること
が、国力の充実に資するのです.
自国民に働く場すら与えられない高失業率国家は自説を述べれば強い国力を有して
いると言えません。

当たり前のことですが、企業を経営改善して優良企業に育て上げようとするとき、
経営内容が悪い企業をわざわざ選んで参考にする社長や経営コンサルタントはいる
でしょうか。
したがって日本は高失業率国家のシステムを参考にするときは余程慎重にしなけれ
ばならないのです。


12. 次に「個人消費(非消費支出も含む)+貯蓄(=個人総消費)=所得」と
「労働者の人件費総額」は等価であると考えます。
因果関係論では唯一個人消費の増加が原因となって個人所得増加の結果が得られの
です。
つまり人間は一面では「消費者」として一面では「労働者(社長を含めて)」とし
て振る舞う二面性を持っているからである。
しかも企業も国も実は人間が運営している「法的存在はあるが実体無き存在」なの
です。
ホンタ゛やソニーや日本という生物が存在するのではなく、そこにはそれらを構成
する人間が存在するだけだからであります。
しかも全ての商品の原材料は少し深く考えてみれば分かりますが、全て地球資源か
ら成り立っており、無料のものばかりなのです。
つまり人間が手を加えるから価格が付くのであり、商品の全コストは人件費の塊り
と考えて誤りはないのです。

例えばマグロの刺身一つをとっても、マグロその物は海の幸であり無料のものなの
です。
ところが鉄鉱石を採掘する人の人件費、それで船を製造する造船業の人件費、漁師
さんの人件費、卸屋さんの人件費、魚屋さんの人件費などが加わってマグロの刺身
の一切れの値段が決まるのです。
つまりこれに関わった全ての人件費の合計になるのです。
つまり消費が活発化している国こそが、所得が順調に増加する景気が良い国なので
ある。
消費が活発化するところに、所得の向上があるのです。

資産バブルより実物商品・サービスの消費活発化こそ大切なのです。
実物商品・サービスの消費活発化があって始めて資産バブル(無から有が生じる)
が発生する可能性が出てくるのです。
この資産バブルは意識して対策を立てれば防止は可能なのです。
ここからも消費税を導入し消費規制を行っている国々の失業率が高く、企業はリス
トラをして消費の減退に対応しなければならない理由が分かると思います。
このような税制に労働者の味方であるはずの野党や労働組合の代表ですらこれを維
持しようと躍起となっているところに経済問題の本質を理解しない人がなんと多い
ことかと感じています。

アインシュタインはE=MC2 つまり(エネルギー)=(質量)x(光速度の二乗)
という公式で物質の質量が消滅すると莫大なエネルギーへ変換されるという驚くべ
き結果を実験から発見したことが物理学に革命をもたらしたと同じように個人の
「所得収入=消費支出+非消費支出+貯蓄支出」という既知の簡単な法則を踏まえ
てさらに詳しく内容を検討分析していくと「消費支出+非消費支出(税などを通じ
て市場へ)+貯蓄支出(結局企業の設備投資へ回る)の合計額が企業の売り上げに
変換され、またそれが労働者の所得として全額還元される」自己回帰的な関係にあ
りさらにこの公式の中で「貯蓄支出は伸びてもこれが企業の活発な設備投資に結び
つかなければ所得として還元されないので」結局の所人間の消費したいとする本能
に操られ「商品とサービスの消費支出が増加すること」を自由にして規制しないこ
とが大切であり、その増加に応じて「所得も増加する」連続的自己回帰的共鳴現象
を起こすのが経済成長とか経済発展と称するものなのであることを理解することで
あります。
したがって消費税という消費規制税制の本質は経済成長の規制妨害要因といっても
良いものなのであり全廃すべきなのです。
但し商品やサービスへの消費額の増加が悪い浪費にならないように、商品やサービ
スの消費増加の方向性を国民大衆自身が良い方向へ進化する姿勢を助けるため国は
国民大衆の求める規制機能や促進機能を十分活用することが重要になるのです。
国民大衆は人間として自ら生き残りたいとする利己的遺伝子による利己的行動、利
他的行動の影響が大きい以上消費が極端な浪費になったりしない自己規制の本能を
持ち進化システムさえしっかりと保持すれば必ず良い方向へ必ず進化すると確信し
ています。
14.「個人消費」の深遠な役割および「人間が良心に従い誰にも制約されず独立
して判断行動できる重要性」と「生命、自由、幸福追求の権利の尊重」という日本
国憲法やアメリカ合衆国憲法でも定められている項目の深遠な意味。
さて近代経済学における総需要の内訳は「個人消費」、「設備投資」、「政府公共
支出」、「輸出」の4つからなります。
ところが民間設備投資と政府公共支出(税が源泉)については会計学的に見れば個
人消費の商品コスト中にとして参入されていた内訳の再掲載分にすぎず、最終的に
これらは「個人消費に大きく依存している」ことは明らかであります。
となると総需要は原則的に「個人消費」と「輸出」の二つから構成されているので
す。
しかしながら輸出は無尽蔵に増やせないことは世界経済を考えれば明らかです。
日本が大幅な輸出超過を行えばどこかの他国が輸入超過、債務国に転落するからで
あります。
したがって自由にコントロールして自律的増加が可能なのはケインズから発展した
近代経済学から考えても総需要の大部分を構成する個人消費のみであり、これに課
税する(罰金を課す)制度の弊害は明らかなのです。
つまり個人消費こそが他の動物には全くない人類の持つ本能であり本質である文化
であり「過剰性そのもの」なのであります。
そして人類の持つ過剰性の方向性こそが文化であり、人類は自身が持つ「内なる力」
によって自ら生き残れる方向へ文化を発展させているのだと信じて、これに規制を
加えるべきでないと確信しています。
この過剰性の拡大こそが文化を発展させ、社会制度、経済制度を確立し人類に幸福
をもたらしてきた歴史的事実があるからです。
高齢者福祉や高度医療や環境問題は正に究極の過剰性であり、消費経済が高度に発
達した余裕ある社会でしか強力な対策が立てられない問題ばかりだからなのです。
また寄付行為も究極の消費なのです。

「金は天下の回りもの」の格言で分かるように、浪費でさえ(倫理上問題になる消
費は別であるが)突き詰めて考えればそれなりに経済的には意味があるのです。
さて人類は洗脳されやすい生物であることは、理念優先のコンセプトやスローガン
を掲げた全体主義国家、共産主義国家、軍事独裁国家などが今でも存在する所に人
類の根本的問題が存在するのです。
これらの国家は「大衆主導国家」ではなく「エリート主導国家」である所にその本
質があります。
浪費家と吝嗇(ドケチ)とはお金の使い方が異常であると言う点で「全く類似して
いる」のです。
理論家には失礼な言い方になってしまうと思いますが、同様に真の全体主義と真の
共産主義では、根本的な言論の自由や情報公開が無く国民大衆の意志を尊重しない
という点で「全く類似しているのです。」
全体主義と共産主義国家の崩壊前後の状況を見ると明らかです。
現場の事実としての現実と常に向き合っている大衆ではなく、机上で頭の中で考え
た仮想現実に基づき現実を把握し大衆を統制しようとするエリートでは判断に大き
な誤りが生ずるのは当然であります。
大衆自身の進化を国の進化として容認しようとせず、エリートがエリートの理念で
大衆をコントロールして進化させようとするとき進化のスピードは進化システムの
原理から極端に遅くなるのです。
為政者は人間である以上、いくら強大な権力を持っていても寿命があります。
いずれどんなに長い時間が掛かっても、色々な出来事があったにしろ国民大衆の進
化の大波によって淘汰されるのです。
鯖や鰯の大群のような天下の大軍である大衆は自分自身の提案した計画や決定した
計画(押しつけられた計画ではなく)が取り上げられたとき、膨大な力を結集し最
もその実現に努力するものだという簡単な原理が働くのが大衆主導国家なのであり
ます。
システム工学的に考えれば大衆主導国家は進化の方向性が統制出来ない(方向性は
結果として現れるだけ)ことが「進化システムが働くゆえんであり」、エリート主
導国家は進化の方向性をエリートが制御し統制できるところに「進化システムが働
かない理由がある」のです。
何故に衆愚政治に陥りやすい大衆主導民主国家が優秀で効率的と思われるエリート
主導国家を打倒していく過程をみるとそのシステムの中に人間の「内からわき上が
る力」をそのまま利用して進化させる「進化システム」をその経済社会体制の中に
保っているかどうかに掛かっていると強く感じるのであります。
憲法が何故国民大衆の一人一人に「自由」(アメリカ的自由であり、フェアーでな
い自由は徹底して規制される)、「平等」、「国民の幸福を追求する権利」を認め
ているかと言うと、それは少数のエリートに社会の進化の制御を任せない「進化シ
ステムを働かせるための実質的保証に他ならない」のであります。
つまりエリートと言えども本質的に国民大衆と同じ一人分の自由と平等、幸福を追
求する権利しか持たせないことを宣言しているのであります。

これをエリートが形骸化して唯我独尊に陥り、エリートが大衆を優越するとか、エ
リートが大衆を指導するとかなどの思想が蔓延した瞬間から大衆の世論を重視しな
い政治に堕し進化システムは機能しなくなるのであります。
15.「効率というものに対する批判」は正しいのか。(仮説)
経済不況の浸透とリストラの発生や労働密度の上昇に伴って「効率」に対する批判
が出てきているがこれは正しいかの検討である。
しかし効率は根本的に必要な概念と考えています。
それは根本的に人間が非効率を要求する特質を持っているからです。
より短い労働で、より長い学校教育、より多い年金、より多い休暇、より質の良い
生活などの生産原則に反する非効率さを人間が欲求するかぎり、生産を徹底して効
率化して対処する以外方法は無いのです。
つまり人間は「働かないで」「良い生活をしたい」という極めて矛盾した不可能な
欲求を根本的に持っているからであります。
これを実現するには、労働時間短縮の労働環境の中で、ゆとりある余暇と豊かな消
費生活を同時達成するには生産現場において「効率生産」はどうしても必要になる
からです。
そして人間が自分の獲得した所得の中で出来るだけ多くの商品やサービスを得よう
とすれば、その商品やサービスの値段は出来るだけ安くなければならず、安く商品
やサービスを企業が提供するには「効率的生産」でなければ、それは実現できない
のです。
つまり「効率」は人間そのものの欲求が根源である以上、根本的にこれを否定する
ことは出来ないのです。
商品価格が人間である消費者にとって規制効果を持つ以上これを引き下げる努力は
生産者の義務であり、このためには商品価格を引き下げる為の生産の効率化は必要
な概念なのです。
ただ国民の幸福の追求に反する「効率化の個別弊害部分については徹底した個別規
制が必要になるのは当然のことなのです。」
次に「企業の効率の解釈」と「国の効率の解釈」は全く異なることを述べたいと思
います。
企業の効率の解釈は文字通り「効率の追求と生産コストの削減」であります。国自
身の業務の効率化についても企業の場合と全く同一であります。
しかし「国全体(企業と家計)の効率」となると非常に複雑な解釈になるのです。
つまり国全体は常に「科学技術の発達に伴う個別企業の生産技術の効率化に伴う生
産性の向上」と「新商品の登場に伴う消費者の選択肢の増大によるこれに対応しな
ければならないことによって生じる企業全体の生産の非効率化による生産性の低下」
のバランスによってかろうじて国全体としては極端な効率化が進まず、失業の発生
を食い止めている側面があるのです。
つまりインターネットが発達して企業の生産現場が効率化されても、消費者側から
見れば零細小売店、コンビニ、スーパー、デパートの他にインターネット通販によ
る購入チャンネルが増加し、ましてや今まで店に行って買っていたジャガイモ(店
は大量一括購入している)一袋が北海道から自分一人のために個別配達してくれる
場合も生じてくるので国全体としては従来の小売店の売り上げが落ち、インターネ
ット通販によって新たな個別流通配達コストがかかり国全体としては「効率化」と
「非効率化」が混在するのであり、そのような経済競争の中で「最悪企業が徐々に
淘汰され国全体としては少しづつ効率化が進む」のであり、国全体としては決して
劇的には効率化は進まないのであります。
であるからして国はIT産業ばかりに目を向けるのではなく、全ての産業に平等に
目を向ける心構え必要があり、どの産業が隆盛となるかは「結果として表れる」か
らであります。
そして人間が自分の得られる所得の中で各種の商品やサービスの提供を受けようと
すると提供を受ける商品やサービスが効率よく生産されなければ、多くの商品やサ
ービスの購入の選択肢を諦めなくてはならず、これはそれを必要とする人間にとっ
て幸福ではないからである。
つまり人間は商品を標準化、単純化、機械化し効率に大量生産される安価であるが
高品質で人工的な商品やサービスを強く求めると同時に、標準化、単純化、機械化
されていない非効率であるが自然的で人間的な商品やサービスを求める「同時的二
面消費性向」を根本的に持っているのであり、その意味で「標準化、単純化、機械
化された人工的で効率性の追求を必要とする分野」もあり「自然的、人間的な非効
率性を必要とする分野」も同時にあることを十分理解しなければならず、必要な政
策もこの二つの分野にいづれにも目配りしなければならないのであります。
特に人間の「無いものねだりの性質」から判断すると、自然的で人間的な非効率な
商品やサービスしか提供出来ない国では「効率的な商品やサービスがより好まれ」、
極度に生産が効率化され人工的な標準化、単純化、機械化された商品やサービスが
大量に生産されている国では「非効率であっても自然的で人間的な商品やサービス
がより求められる」ので産業政策もこれに合わせ立案されるべきことも念頭に置か
なければならない。
ここに消費者の望む雇用吸収力の高い低生産性企業つまり中小企業の存続を出来る
だけ計る必要性があるのです。
したがって日本のように大量生産される人工的な商品・サービスであふれかえり労
働が機械へ置き換わることによって個別企業の競争力は高まるが逆に国全体の失業
率の高まる恐れのある国では、非効率であっても自然的で人間的な方法による低生
産性の商品やサービスの消費を促進するような社会的雰囲気を醸成するように国は
努力すべきであるし、日本には中小企業政策が特に重要なことは以上の理由からで
あり、これに「国の促進機能」を使用することは「良い結果を国へもたらす」ので
あります。
つまり全国民が労働に従事している状況こそ、国家の競争力が最強の状況だからで
あります。
科学技術の進歩により生産性が徐々に向上し失業率が高まる恐れがある中、これを
実現するのには膨大な数の人間で成り立っている経済政策を考える場合「営利企業
・利潤追求精神」と「非営利組織・ボランティア精神」と「その両者の混在を認め
る形態」の巧みな組み合わせこそ「需要と供給」や「経済発展」を奥深く徹底して
追求していく場合重要な要素になることは根本的に理解しなければならないのは明
らかであります。
さて国民一人あたりの生産力は科学技術の進歩に伴って既に述べたような経緯を辿
りながら少しづつ上がって行くわけであるから、国民一人あたりの消費も少しずつ
あがっていかなければリストラや失業問題が起こるのは当然なのであります。
問題は労働基準法の範囲内の徹底した効率化の追求であり、ダラダラと実働時間が
長いことを「良とするような風潮」こそ問題なのであります。
つまり社会は効率を追究すべき大量生産分野と効率の追求が緩やかであるべき人間
的な分野との共存こそがこれから未来に向かって強く求められているのです。
したがつて単純な効率批判も正しくなく、また効率礼賛一辺倒も正しくないのです。

人間生活における「善」「悪」のけじめ(区分)と、「労働者」と「消費者」の立
場におけるけじめ(区分)をしっかりつけることが重要になるのであり、その意味
で言えば本来は必要な効率化を批判するより、消費の選択肢を増やし増大させるべ
きなのにこれを規制することこそ非難すべきなのであります。
消費の重要性の根本は消費こそが「すべての所得の分配行動そのものだからであり
ます。」
音楽アーチストに対する消費の増大は即音楽産業の興隆につながり、インターネッ
トに対する消費の増大は即ネット産業の消費の興隆につながり、非遺伝子食品に対
する消費の増大は非効率であっても伝統的で自然な農業の興隆につながり、その分
野で働く人々への所得の分配につながるのであります。

しかし反面資本主義は効率を求め競争に勝とうとする働きをします。
効率は消費者に多大な恩恵を施すと同時にそれが行き過ぎると、資本の論理から必
ず独占が起こり、資本による強欲さと強権が発動されるようになります。
このため資本主義の本家本元である「アメリカでは歴代の政府がその時代の独占を
果たしたナンバーワン企業と独占を巡って戦う体質」が出来上がり強固な独占禁止
法が制定され実行され、さらに「フェアーという概念が確立」していくのでありま
す。
「効率」は所得が高いが生産効率の高い人間集団の生産する商品と、所得が低いが
生産効率も低い人間集団の生産する商品が各々の知恵と努力を持ち寄った生産コス
トと品質をもとに「フェアーに戦える環境」こそ重要なのであり、全ての企業の生
産効率を同一に高くして経済問題を解決しようとする試みは、全く正しくはありま
せん。
科学技術が発達し、生産設備の全てが人間から機械に置き換わる過程において根本
的に標準品の生産効率が飛躍的に毎年増大し極く少数の人間で大量生産をするのは
当然であり、その帰結として「誠実で正直で勤勉に少しづつ効率を高め消費者の支
持を受ける努力を怠らない品質の高い・人間味のある人間主体のサービス業やサー
ビス業に近い低生産性企業」が雇用の主力になることは運命づけられており、その
重要性は飛躍的に増大するのであります。
このような低生産性部門こそ経済活動の中で、これからの人間の労働の側面をカバ
ーし所得分配の大きな柱に育つ存在になることは明らかであります。
商品の生産ラインが全て自動化され、さらにそれらの商品の生産ラインを製造する
母生産ライン(いわゆるマザーマシン)も自動化され人間がほとんど不要になった
とき生産(労働)の全てを機械が担うこととなる世界が遠い未来に実現したとき(こ
れは論理上である)どうやったら全ての人間に努力に応じて「適切な所得を分配す
るか」の問題こそが大問題であり、それこそが「機械化出来ない人間主体の低生産
部門の存在」の重要性を示しているのであります。

したがってサービス業やサービス業に近い低生産性部門と言えども消費者に提供す
るサービスや商品は弊害が出ない限り効率の追求は、消費者に限られた所得の中で
多くの選択肢を提供するために必要であり、効率そのものに対する批判は正しくな
く、効率を追求しなければ、「無農薬米10キロ 2万円」という法外な値段の社
会になるため効率化の努力は必要であり「効率から生ず個別弊害の個別排除」こそ
重要なのであります。

そのポイントは「独占の排除」「フェアーの概念の確立(労働法規の遵守や競争条
件の労働面での同一化)」「自己の確立」「努力している企業の存続を出来るだけ
長く維持出来るシステムの整備」(超優良企業と多数の普通以下の企業が併存可能
なシステム。これこそが独占に陥らない競争環境の整備になるのであるし勝者の栄
誉は多数の敗者が存在して初めて成り立つのであり多数の普通以下の企業の存在が
個性化した多様な商品やサービスの源泉になるのであります。)などである。
その点次々と企業を合併させ、寡占化させる政策は、必要に応じ会社が真に社会の
役に立つために進化するために自然になされているのであれば了解できますが、人
為的になにか流行に流されたり理念のためになされているのであれば寡占化や効率
化の弊害はかならず社会の中に生じてきます。

効率を語る場合効率的開発や生産を規制又は禁止する少数の分野(たとえば自然環
境を守るべき分野)と、それを基本通り進化の進展に合わせて大部分の自由化すべ
き分野さらに特別に少数の効率を促進すべき分野(太陽エネルギーの利用分野や環
境改善製品の生産分野)に分けられるべき事を認識欲しいと考えます。
大多数の規制も促進もしない分野では、政府はなにもジタバタせず見守る度量が大
切なのです。
17.「貨幣や資本の重要性を過大視しないこと」(仮説)
貨幣が発達したのは過去最も便利な決済手段だったからある。
今でも決済手段が物々交換である未開状態の離島や奥地に住む部族に「日本円」や
「ドル」紙幣を持っていっても、それは飾りか、火をおこすための点火用に使われ
るのがせいぜいなのです。
つまり人間にとって紙幣は根本的に重要な物でなく、「概念」としてのみ重要なの
であり、過大評価すべきではないのです。
根本は物々交換なのです。
デビットカードやクレジットカードが普及すると貨幣の使用割合は急速に減る可能
性がある事で分かるように貨幣は最も重要な物でなく「消費(販売)」という人間
の生きていくための商品の売買行為の補助手段なのであります。
18.食物連鎖では最下層の食物である陸では草、海では植物性プランクトンが増
殖なければ、トップの大型動物は生き残れないのです。
弱肉強食や生存競争というとトップがいつも強いというイメージがありますが、そ
れは皮相な見方なのです。
現実には豊富な下層の生物が居て始めてトップは支えられているのです。
経済も全く同様で、豊富な需要(消費)があって始めて経済や国民の生活が支えら
れるのです。
人間は自分自身の餌・収穫(所得)を自分自身の過剰性の拡大(幸福になりたいと
いう欲求と、そのために努力する意欲だけで)で成し遂げられることを発見した唯
一の動物であり、他の全ての動物から見れば「宇宙人」以外のなにものでもないの
です。
19.「理念と論理の過大評価の危険」と「わかりやすいルール作りこそ再評価」
すべきです。(仮説)
少なくとも進化システムの社会制度をとる限り、目的とする「理念」を掲げること
は正しくありません。
進化システムでは目的を作ってはならず過程だけつまりルールだけを決めれば良い
からであります。
したがって現代の日本でより重要な問題は「理念や目的の羅列」よりも「国民の幸
福追求に役立つルール作り」(もちろんルール作りには目的が必要ですが)こそ大
切なのであります。
スポーツやゲームの世界でも全く同じですが、そのルールは理解し易く、比較的単
純でなじみ易くそれでいて奥深く、対戦は平等条件で、自由に技量が磨けるなどの
ルールを伴っていないと普及しないのです。
やたらと条件が多くわかりにくいルール作りは、国民大衆を対象にするルール作り
としては最低なのです。
日本では右派と左派の妥協の産物としてルールが作られる為、わけが分からないル
ールが沢山作られてしまったのです。

日本ではまず国民大衆の目線でわかりやすいルールへ改善する為の一つ一つのルー
ルの再点検が重要なのです。
よく政治家が理念、理念と言いそれに合致するような社会を提唱しますが、それは
全く間違っています。
理念などというものは社会の進歩に伴って自然に変化するものであり、流行歌と同
じく「歌は世につれ、世は歌につれ」なのであります。

固定的理念を打ち出した瞬間にそれを論理のコンセプトの中心に据えるため「現実
との乖離や事実認識の素直な受け入れの拒絶」が起こり正しい判断が出来なくなる
のです。
真の全体主義、軍国主義、真の共産主義などは正に「理念や観念のかたまり」で出
来上がったシステムだということを決して忘れてはなりません。
どのような美辞麗句で飾っても同じなのです。
競争力の強い進化システムを取る人間社会では「何が人間にとって真に役に立つか」
の議論や判断は事実に基づき個別に行っているのであって、「理念、理念」を振り
回す論戦は個別の現実とかけ離れ、多くの有為な人材を頭の中で考えた理念の構築
ばかりに時間と労力をとられ、末端の現実に起こっていることの事実の把握や勉強
が手薄になる原因であり無意味とは言いませんが止めた方が良いと思っています。

そしてエリートは多くの大衆の末端で起こっている現実と真の欲求を把握しながら
しっかりと勉強し大胆に「人間社会では環境にあたる国民に適応する良い政策を計
画し立案し」、更に「その実施の決定については実質的に全権を大衆に委ねる体制
を作る」(大衆自身に決定させることでこの政策を真に大衆が望んでいるかの判断
と大衆の政策に対する実施協力意欲の向上と学習効果が発揮される。その点世論調
査は非常に重要である)べきである。
このことが「膨大な時間とコストをかけて作り上げた政策が淘汰されるのを防ぐ唯
一の手段だからであります。」
そして一つ一つの人間にとって真に役に立つ個別の政策を実現するうちに「結果」
として望ましい社会や理念が実現していくのです。
つまり理念は結果として実現されるわけであり、それを現実に実現する為には「事
実とルール」こそ第一順位であり「論理と理念」は第二順位の重要性なのでありま
す。
そして追い求めるべきなのは「良い結果」だけなのです。

帰納的論理、演繹的論理の唯一の利点は未来を予測するときに重要な役目をするか
らであります。
人間と他の動物との決定的な違いは「概念」を保持すること、「将来の想像上の未
来を予測できる能力」を持っていることなのです。
そこには事実を基礎にしつつも論理が重要な役目をするからであります。
論理は頭の中で組み立てる理念とやらの構築のために浪費すべきではなく「事実」
に基づき「結果」を出す道具として活用すべきなのです。

20.合成の誤謬について
日本全体で考えた場合インターネットが発達して一部の企業群が徹底して効率化さ
れ株価が上がっても、それが日本経済全体が効率化されたかどうかというと、そう
ではないのです。
生産高/労働者数を生産性と考えれば、日本全体で消費額が増大しない以上、日本
全体で生産額は増大しないわけであり、さすれば生産高/労働者数は一定となり何
らの効率化は為されていないことになるのであります。
個人消費の増加が無い環境でインターネット企業から売り上げを奪われた既存企業
群の業績は低迷しリストラされた人は他の産業に吸収された場合は全日本の生産性
の向上は全くないのです。
これは消費者から見るとスーパーで今まで全て購買していたものに、新たにインタ
ーネット通販購入という選択肢が増えただけであって、日本国内全体で見るとこの
ために一つ一つの商品を個別に配達しなければならないと言う非効率さと販売チャ
ンネルの増加という非効率さ生じるのです。
つまり科学技術の進歩による生産の効率化は消費者の選択肢の増大という非効率化
のバランスによって辛くも「効率の加速度的増大を防止しているのが、経済システ
ムであり」それを超えて消費が増大した場合に限り同一の労働者数でその増大した
消費に見合う分だけ生産が拡大すれば生産性は向上するのです。
したがって科学技術の進歩による生産性が増大する分を消費の増大でまかない完全
雇用を実現しなければならないのが経済運営の要諦なのであります。
そこに消費に罰金をとり、消費を規制する愚かしさを痛感するのであります。

つまりミクロ経済である個々の企業が徹底したリストラと経営改善を行い、立ち直
っても失業者が増大してマクロ経済が悪化するのが現状であり、これこそが「合成
の誤謬」であります。
その根本原因は消費規制税制から生じた「需要不足経済」の進展であります。
需要は人間の本能を規制しない限り自然に増加するのに、これを消費税で商品購入
の都度罰金を徴収するために生じたこの根本的な消費規制税制の再検討無しには
「日本経済における合成の誤謬」は解消されません。

21.日本の消費と貯蓄の70%は女性が支配している意味の重要性と特殊性を強
く認識すべきであり、このことが世界中で圧倒的に貯蓄率が高いこと、消費税の影
響が極端に出る経済構造を持つことにつながっている。(仮説)
日本ではどのような経済政策でも経営戦略でも女性に受け入れられない政策は持続
しないのであります。
アメリカおよびヨーロッパ社会においてはキリスト教と個人主義の社会習慣によっ
て所得主が所得の処分権を持つ社会習慣によってほぼ実質的に男性が消費市場や貯
蓄市場を支配しています。
特に女性のために消費を行うことは女性や家族の愛情を受けるための男性にとって
最大の手段になるため、比較的消費過多になりやすい社会構造なのであります。
イスラム圏になれば、男性優位は絶対になり、買い物まで男性が行うのであります。
しかしイスラム圏はアメリカ・ヨーロッパのキリスト教圏と異なり、あまりに男性
優位が法的・宗教的に絶対的であり、消費で女性の関心を得る必要がないので、消
費が男性中心であっても消費過多にならないと考えています。

ところが第二次世界大戦後に日本の女性の地位の圧倒的上昇(戦前の法律では女性
に参政権はなく、相続や財産権でも極めて男性と差別されており、家庭内で一定の
実質的な権利はあったにしても、法的には全く弱い立場であり自ら主張など出来な
かったのであります。)が起こったのです。
マッカーサーが行った日本の民主化の中で女性の地位向上は徹底して行われ(戦後
の労働基準法は過剰と思われるくらい)急速に浸透したのであります。
しかしながらその過程で日本の男性が敗戦で呆然としている中、戦前から日本に根
付いていた家計に対する女性の関与度の強さと「レディファースト」「男女同権」
などの言葉が氾濫し、見た目のアメリカ社会における女性の地位の高さから、当然
「アメリカの家庭内の家計を握っているのは女性と誤解」したことが、戦後の日本
にどういう訳か完全に定着して、現在では正確な資料がないので明確ではないが、
私の推定では日本の家庭における消費と貯蓄の実際的な支配運営者(名義はともか
く)は70%は女性であると考えています。
日本の男性は欧米の男性と違って「消費しないことを強いられ」「自分の貯蓄がど
この銀行の何という口座に預金されているかさえ」知らない男性が多く、自宅を建
設するときは建設計画、借入計画、返済計画など重要部分のほとんどを女性が行い、
特に銀行との交渉に至っては凄腕を発揮するのです。
この日本の専業主婦の能力は他国の専業主婦と比べれば革命的でさえあるのです。
男性はいつも給料が足りない足りないと聞かされているので「多額のローンを借り
て家を建てるなど絶対無理と思っている」のにドンドン進む自宅の建設計画には恐
怖心さえ感じる男性は少なくないのです。

しかし奥様の立場からいうと、子供と自分に掛けている生命保険をやめて(この場
合ご主人の分は解約しない例が多い。 女性は夫が先に死ぬことを恐れ自らと子供
の生き残りを重視する生存本能の強さを感じます)、定期積金も止めて、自分がパ
ートに出れば月20万円の返済は十分出来ることは、分かっているのです。
このように女性の家計を切り盛りする能力の高さと消費や貯蓄に対する自らの決定
権と支配力の高さは、多分世界的に見ても突出しており、独特の消費構造ひいては
社会経済構造を作っているのです。
日本に於けるゲームやアニメなどの独特の欧米には無い「子供文化」の発達にも女
性の子供に対する甘さが、経済効果を発揮している現象と考えています。
貯蓄率の異常な高さもしかりです。
自ら所得を獲得する力が弱いのに生存本能は男性より遙かに強い女性が家計の支配
権を持っている以上、男性の明日の所得の保障は不確定である現代においては「貯
蓄優先」「自らと子供の生活優先」の姿勢をとるのは、全体としてやむを得ないこ
となのです。

女性商品の品揃えの豊富さもしかり、女性向けのエンタテイメント商品の品揃えの
豊富さ、子供のゲーム、CD、チケットの品揃えも驚異的であります。
それに比べて男性向けの商品の貧弱さは見た目でもわかります。
もちろん男性の憩いの場である飲み屋は例外ですが。
その中で最大の問題は消費税に対する圧倒的な女性の拒否反応です。
男性ならば、これは「税金」だからと論理で割り切ることは女性よりは少しは出来
るかも知れません。
男性の脳と女性の脳の構造が生物学的に違うことは、すでに知られており、男は物
事を判断するとき大部分左脳(言語・論理脳)のみを使い論理的に解釈し割り切っ
て判断を下すのに対して、女性は左脳と右脳(直感・感覚脳)に脳梁を介して情報
を分散させ細かく判断するので「自分に不利な事を論理的に納得して割り切る」こ
とは不得手であり、「不利な事は不利であるとはっきり認識する現実主義者」なの
であります。
これは男性より子孫を残すため遙かに強い生き残りにかけた「女性に対してのみ神
が与えた能力」なのかもしれません。

したがって多くの日本女性が自らの家庭の消費と貯蓄の全権を担当している以上
(欧米では女性は月や週の生活費のみを受け取る例が多く、日本のように月給袋を
まるまる受け取る習慣は無く、言葉は悪いが家計全体に対する責任感は日本女性よ
り薄いと考えている)家計維持に対する責任感は強く一円、二円に勝負を賭ける日
本の女性の買い物において1000円の買い物をすると50円を徴収される消費税
の消費減殺効果は日本では恐るべきものがあります。
そして消費しなかった分は、消費税がかからず将来に備え自らの責任で貯蓄に回す
のです。
根本的に欧米と日本の違いは、欧米では男性が主として消費と貯蓄の担い手として
全責任をとって行動するのに対して、日本では女性が主として消費と貯蓄の担い手
として全責任をとって行動すると言う点なのであります。
これは完全に定着している社会慣習である以上これを元に政策を立案しなければな
らないのです。
したがって我々が、企業に対して奥様方の財布の紐を緩めさせるためにあの手この
手を使って買い物をさせる販売促進活動を指導しているというのに、買い物をする
ときには、必ず税金を徴収する制度がどれ程買い物の主役である女性の財布の紐を
締めさせ、消費税のかからない貯蓄に資金を回させているか想像して貰いたいと思
います。
消費が減って、設備投資資金の原資になる貯蓄が増えたといって、消費がないのに
誰が生産力増強のための設備投資をすると言うのでしょうか。
だからアメリカへ日本の資金が流れて何と経済競争相手のアメリカ経済を手助けし
てしまうのです。

結果はケインズが最も忌み嫌う設備投資に回らない「貯蓄のための貯蓄」が増加す
るだけであり、一部の先端企業は良いとしても大部分の既存企業の業績は当然なが
ら悪化し一部の金融機関は存続すらも危うくなってくるのです。
ここに「日本の家計の70%は女性が握っている特殊性」を強く意識した税制が望
まれるのです。

22.政策の淘汰や選択を行うのは「国民大衆」である意味について
生物の進化論では「変異」を伴う生物が自然環境の中で「淘汰」されることによっ
て、適応したものだけが「適者生存」で生き残り「進化」すると考えられている。
生物の進化論では淘汰の働く環境とは「自然環境」を表すが、「政策における環境」
とは政策の対象が人間である以上、「人間または国民大衆」になるのであります。
したがってその政策が長い間、国民大衆の中に根付き定着して良い政策効果を上げ
ないものは、遅かれ早かれ「淘汰」されるのであります。

つまり国という独占組織に必要な意志決定における内部競争とは「環境自身に意志
を決定させることが、最も環境自身に適応した政策になる。」という当たり前の原
則に則っているのであります。
したがって大衆の意志を無視する政策は民主主義と市場経済という進化システムの
中でいづれ「淘汰」されるのです。
23.組織の進化のスピードを早める方法
進化論によれば、進化の伝播スピードは小集団であるほど早く、大集団であるほど
遅いという根本原則があります。
この原則から国の中小企業政策の必要性を強く感じられます。
つまり小さい企業は進化のスピートが早いからであります。
次にもう一つ組織の進化のスピードを早める方法としては「良いことは実行する」
「悪いことは止める」といった基準で毎日の細かい日々の判断を早く確実に実行す
る体質を作ることが、進化のスピートを早め「良い結果を出す」正統派の方法なの
です。

良いことを異常にやる企業は業績が大幅に伸び、悪いことを異常にやる企業は倒産
する。
良いことを普通にやる企業の業績は可もなく不可もない。
「理念や理屈をこねくり回し」良いことの実行が遅れたり、悪い慣習を止めなかっ
たりすることが進化を遅らせ、結果が出せないのです。
必要なことは「良い悪いの基準」を明確にして、これを細かい点から確実に早く実
行することによって、その判断の積み重ねが「良い結果を出す」秘訣なのです。
西洋の諺に「真理は細部に宿る」があり、葉隠れには「鍋島候のお壁書きに曰く、
小事は重くすべし、大事は軽くすべしと申され候」とあります。

もちろんトップがバクチのように大きな事業を打ち出しそれが物の見事に当たる方
法もありますが、これを当てにばかりすると従業員は努力しなくなり経営は社長の
運に依存しすぎて社長の命は無限には続かないので長期間には倒産の原因になりま
す。
現状の国の組織は国民から見て部署間の整合性を高め、組織の効率性と国民の利便
性を同時に計るため、良いこと悪いことをはっきりさせて、誰が見ても(この視点
が大切)悪い政策をドンドン排除し「良い政策」を「計画」し「実行」し「評価」
する経営サイクルをより一層考えるべきです。
24.国の組織の最終的な形態は税を使って機能的国家として国民に奉仕する効率
的な国家になるために民間大企業の進化した組織とほとんど同一にならざるを得ま
せん。
しかし民間大企業と決定的に違うのは、独占組織である国の組織原理は内部競争条
件を完全に満していなければいけない点です。
国の組織でまず強化すべき所は、日本の社会経済全般にわたるルールや基準を策定
する部署つまり「計画部門」の強化であります。

次に国でしか出来ない実行部署として、防衛庁、外務省、大蔵省など全ての省庁に
渡って国でなければ出来ない部門かどうかの再点検が絶対に必要になります。
「営利」「非営利」を特別視や絶対視することは誤りであり、「どのような方法が
国民にとって真に役立つかの論理」こそが重要であります。
民間でやった方が国も負担が少なくなるし、国民にとっても望ましい結果が出る部
署があった場合は民営化すべきなのです。
この点ブラグマチズム哲学が発達した主としてアメリカやその他のアングロサクソ
ン民族の国々の実例が大変参考になります。
もちろんアメリカと日本の国民性の違いから全く同一に模倣は出来ませんが、取り
入れるべき所は取り入れ、日本の国情から誰が考えても無理な物は取り入れないと
いう「判断」が大切になります。
その上で国が担当すべき必要最小限度の「実行部門」と決められた部門は強化すべ
きです。
最後に日本の社会経済部門全般に渡り決められたルールや基準通りに国が運営され、
それらのルールや基準を誠実で正直に遵守している国民が不利益になっていないか
どうかをチェックしサポートする「品質管理、評価部門」である警察、税務署、各
種検査所などの監督官庁の強化が非常に重要になります。
民間大企業で最も重要視されるのは「計画部門」と「評価(品質管理)部門」だか
らであります。
つまり実行部署は大部分が外注化(アウトソーシング)が可能だからです。

自動車メーカー、家電メーカー製品の大部分をしめる部品は下請けされ中小企業や
外国で製造された物を使用しており、これら大企業は極端に言えば企画部門(計画
部門)と最終検査と品質管理部門(評価部門)を主力としつつ、国には存在しない
「販売部門」で成り立っているのです。
しかし国の場合、民間企業と異なり国の機能を発揮するために一部の「実行部門」
は国の固有の業務としてどうしても民営化出来ない部分があることは、認めざるを
えません。
したがって日本の場合、特に手薄になっている「計画部門」(誰でもおかしいと感
じている法律の改善や制定が遅々として進まない現状は計画部門の弱体化は明らか
である)の強化とそれに合わせた「評価・品質管理部門」の強化はまず優先的に必
要である。
これは「計画部門」と「評価・品質管理部門」は全国民と全民間をカバーした国民
一人一人の利害に直接関わる部門だからであります。

しかしながら「実行部門」は国自身の行動に関するものであり、今以上に強化する
優先順位は低くても当面は差し支えないからであります。
国は独占組織体であり、民間企業のように競争がありません。
しかし国も経営組織体であることは民間企業と変わりないのです。
それではどうして国のような独占組織体では組織が非効率化し肥大化して、本来の
目的を忘れ自己保身に走るようになるのかというと、諸悪の根源は「競争環境の欠
如」なのであります。 競争は良いものが生き残り、悪いものは淘汰されるという
原則が働く環境なのに、それが無いからなのです。
したがって独占組織体を活性化するには、少なくとも組織体内部に競争環境を導入
し、まず組織の最高意志決定機関(国会)には内部競争方式(別掲)を厳格に取り
入れなくてはなりません。
さらに計画企画部門を複数設け一つの問題に対して複数の解決案を競争提案させる
システムを作り上げることが望ましい。
もちろん計画部門の増員が必要になるが、的確な政策を実行できるメリットは莫大
であり良い計画を選択できればその効果は計り知れません。
「したがって私は通説と異なりこれからの10年間は中央官僚を現状の2倍に増員
することを提案し、且つ現場のたたき上げの中央官僚への増員を特に望み、更に中
央官僚のルーチン(定型)作業を大幅に減らし、既存制度の大幅改善と新規計画立
案作業に全力を尽くさせる体制(国民を幸福へ導く変異を行う体制)を作るべきと
考えています。」
中央官僚の減員はそれらの作業を一段落した上で行うべきなのです。
そこで特に重要な基本政策については、1つの政策目的に対して計画立案者(中央
官僚)を複数部門(基本的に3つ)設け、各々別々の案を選択肢として競争提案さ
せ、それが決定され実行された場合のあらゆる分野に渡る影響の未来予測を行い(提
案内容によって未来に対する影響は全く変わってくる)生ずる利益、発生する副作
用(薬と同じく一つの政策の実行には必ず何等かの副作用が伴う)について詳細な
検討を行い、その上でおのおのの案の不確定な計画実行後の未来を確率的に予測し
計画書を政策案として纏め、計画決定権者(国会議員、首相、大臣)に競争して複
数提案するシステムを取るべきであります。
したがって各々の計画立案者の個人的氏名(最低でも部門名_)の公表は名誉なこ
とであると同時に結果について責任を与える事がより良い政策を立案させるための
重要なインセンティブ(動機付け)になるなるからである。
計画案に個人名等をを入れることは、民間では当然のこととして受け入れられてお
り、場合によっては計画案に懸賞金が付く場合もあるのです。
民間企業でも一番大切なものは「良き計画」であります。
ある意味では計画こそ全てなのです。
したがって国でも「計画立案部署」の強化は国の経営にとって一番大切になります。
中央官僚が計画立案部署の要員として、自らの足で現場の情報収集をできる体制(現
状は競争が無いから自分の足で情報を収集しょうという意欲もないし、体制もない。)
自分の足で資料を集めないのも、失敗した場合他部署から収集した資料が悪かった
等と言い訳の材料を色々つくっておくためである。
もし全てが自分の責任で未来まで予測して優秀な立案をしなければならなくなると、
情報の収集も自分自身でやらなければ安心出来なくなる。
さらに教育訓練を行ってあげ、人員等を強化して「プラグマチズムの哲学を志向す
る」優秀な計画立案部署を育て上げるべきと考えています。
そうしてこなかったことが、「日本の現場の実情を知らない論理優先の頭の固い高
級官僚を作ってしまったものと考えます。」
そして色々な審議会、調査会などは、あくまでも高級官僚に対する助言機関とはっ
きり位置づけその人選なども担当高級官僚へ一任する体制を作るべきであります。
こうしないと自己責任原則が作動せず計画提案者が誰なのか責任の所在がはっきり
しない問題点が噴出してしまう。
問題は憲法で定年まで身分保障され、政治家に人事権は無く永年行政のトップに君
臨し政策の全てを策定している高級官僚が政策の責任を問われず選挙で選ばれた期
間のみ大臣としてその形式的な決定に関与している大臣のみにマスコミを始め国民
が責任を追求するのは「国民のためにならない」と感じています。
なんとなれば、その計画案を策定した高級官僚はもちろん決定権はないにしろ、計
画提案者として詳しい考え方や内容の情報公開を計画提案者として責任を持って明
らかにする義務があるからです。
国民の税金で給与をもらっている以上当然の事なのです。
アメリカでは大統領が変わると高級官僚の2―3000人が大統領が引き連れてき
た高級官僚と入れ替えになるシステムを取っている。 旧高級官僚はそこで失業す
るのです。
したがって日本と違ってアメリカの高級官僚は大統領の政策を忠実に計画化する官
僚が多いのです。
したがってトップが変わると明らかに政策も変わるのがアメリカ式なのです。
したがって政策の不連続性や古いいきさつ良く知らない問題が発生するが、アメリ
カ人の持つ、プラグマチズム、帰納法の論理方法(したがって報告書を良く残す)、
判例主義の法律制度、結果だけを重視する考え方などでこれらを克服している。
アメリカの高級官僚は前政権の高級官僚の政策と「競争して独自の結果を出す」と
いう競争条件にいつもさらされているのであります。
私は日本の高級官僚制度において幾多の良い仕事をしてきたことも理解できるが、
これはたまたま内部にいた古い官僚が常識があり本質を理解していただけであり、
新人類の官僚に対しては「結果に対する責任体制の欠如や結果の成功に対する名誉
の与え方の欠如」「独占組織体ゆえの競争環境の欠如」「費用対効果意識の欠如」
が決定的に問題になっているのであり、この組織体の病巣であり、これを解決すれ
ば日本の官僚制度も捨てたものではないのである。
政策は官僚名で提案させる必要がありそれこそが計画責任を明確に出来る唯一の道
であると考えています。
民間では企画とか計画部門を完全外部委託する会社は殆ど存在しないのです。
企画計画部門こそ自社の最終責任者の高級幹部と役員が一体となって取り組んでい
る部門だからである。
国ほどの大きな組織において、最終責任の無い外部者に審議会とか調査会とか称し
て企画計画部門を外部に任せる奇異さは、高級幹部や役員の責任逃れの体制以外説
明がつかない。

さらに日本の国の会計基準である財政法と会計法(法的な形式は極めて厳格に作ら
なる現金主義)を良く検討してみると、肝心の国が発生主義による正確な自らの経
営情報が根本的につかめないシステムになっていることが大きな問題点であります。
ましてや財政法の健全財政主義が形だけの言葉あわせに過ぎない現代の財政状況に
おいては「言葉だけの理念より」「ルールを進化に適したやり方に改善する」つま
り「国民に国の正確な経営情報を公開する」ことの方が早い問題の解決になるので
あります。

つまり未収入金、未払金が国の決算書では完全には記載されていないのです。
例えば税の滞納情報などは民間では複式簿記による発生主義会計である以上、商品
を引き渡した以上回収にどんなに長い期間が掛かっても売掛金または未収入金とし
て、売った瞬間に確実に把握しているのに、国は現金主義である以上決算書にこれ
が正確に明示されていない根本的な問題があるのです。
民間はどのような形態の企業であろうが、税法によって商品の引渡し基準など複式
簿記による損益の発生主義が厳格に適用され細かい経営内容まで精密に分かる会計
システムが強制されているいるところから、国であろうが民間企業であろうが非営
利であろうが営利であろうが経営組織体としては特別に会計基準を根本的に区別す
る必要性はなく、さらにコンピューターがこれほど発達した現代においては、どの
ように膨大なデーターでも処理可能になった訳でありますので、国も複式簿記と発
生主義の会計の採用によって民間と同一の損益計算書(税収を収入として経費を支
出として計算する**国債は区別を付けることなく歳入としてではなく負債の増加
として認識し、国債償還は歳出としてではなく負債の減少として認識する)方式に
全面的に変更する必要があります。
現代のように民主主義が発達した以上、日本も国の財政は正確で分かりやすい情報
また国は省庁別に複雑な民間になじみのない科目で処理をしているのが、これを一
取引毎に「官庁基準」と「民間基準」の二重科目制をコンピューターで取ることに
よって効率的なマトリックス会計による従来の国の官庁決算書と民間準拠決算書の
同時作成が可能になり民間と同一科目基準により常に国の正確な経営情報を国民が
誰でも直感的に分かりやすくつかむことが可能になるのです。
さらに歴史的ないきさつがあるにせよ、現代ではマスコミや市民団体によるチェッ
クが厳しい以上国の予算に「単年度主義」を強制する理由はなく、使う必要のない
と判明した予算まで使い切るルールを改めなければなりません。
この単年度主義のため日本ではバブル期に大きな税収増を国債の繰り上げ償還や剰
余金の確保を行わず単年度主義によって大盤振る舞いに使い切り、バブルに国が加
担したことに比べ、現代の「アメリカでは単年度主義ではない」ため、クリントン
政権はこれを国債の繰り延べ償還(これさえも市場における民間の資金余剰を演出
しかねず注意深く行う必要があります)、資金の内部留保につとめバブルに加担せ
ず、将来に備える立場を鮮明にしています。つまりバブル期では国家は財政を徹底
的に引き締め、増税を行い膨大な資金を国家に貯め込み、決して国債の早期償還も
行わず、ひたすら民間の膨大な余剰資金を吸収することに努めれば、いずれハブル
は自然に収まり、更に景気後退期が訪れたら国家は財政的な余裕を武器に本格的な
財政支出を始めて行うべきなのです。バブル期は民間需要が膨大に発生するので、
インフレが発生し、この様なときに民間と競って国家が設備投資をしてはならない
のです。国家は経済成長を調整するダムの様な役割も果たすのです。つまり単年度
主義の束縛が無いために、予算を使い切る必要が無く政権毎の的確な政策が取れる
のです。 現状の財政状況を国民に開示した上で「国民の審判」や「マスコミの批
判」を受けるという、その一点だけの政策に変更すべきで、過去のいきさつがあっ
たにせよ「物理的に経済変化に対して適応力の乏しい単年度主義に固執する理由は
全くない」と考えます。
マスコミの発達した現代では意味がよく分からない「単年度主義に固執する理念」
をエリートが述べるよりも、民間大衆と同様に発生主義と複式簿記を採用し、事実
を事実の通りに正確にわかりやすく国民大衆に開示してくれるルールを作った方が
遙かに財政健全化への進化が早くなるのです。

25.官僚をはじめとする超エリートの最も不得意な分野は「未来に対する予知能
力(予測能力)」である。(仮説)

17−18世紀における哲学には大陸(ヨーロッパ)合理主義とイギリス経験論の
対立があった。人間の知識や認識の元は「経験」であるとする経験論に対して合理
主義、理性主義はこれと対立する立場であります。
アメリカのブラグマチズム哲学の源流は正にこのイギリスの経験論に支えられてい
ると言っても過言ではないのです。しかしこの古色蒼然とした経験論は現代の最新
鋭の動物行動学や遺伝子研究から、哺乳類の脳はコンピューターのRAM(ランダ
ムアクセスメモリー)に類似しほとんどプログラムが組み込まれていない真っ白な
記憶領域に相当し、哺乳につながる哺育による学習効果つまり経験によってのみそ
の動物の生存のための知識が得られ脳にプログラムが蓄えられそれがその種の文化
として親から子へ学習による経験を通じて伝えられることが分かってきたのであり
ます。つまり哺乳類の種が持つ独特の文化は遺伝子と似た作用があるのです。
さて昆虫の脳はROM (リードオンリーメモリー)に類似し、生まれながらにし
て脳の記憶領域にびっしりと始めからプログラムが書き込まれており、それを変更
したり付け加えたりすることが、ほとんど出来ない構造になっており行動パターン
が脳に刷り込まれていることがわかっており、親から子への学習は極めて少なく、
予め脳の遺伝子により決められた精密な行動パターンが生まれながらにして脳から
伝達されて彼らは行動しているのです。これらのことから哺乳類である人類にとっ
て学習による経験は根源的に重要な知識習得過程なのであります。しかも文字によ
る知識などと言うものは他の動物では全く行われていない特殊な文化なのでありま
す。もちろん知識は過去の経験の集大成であり、経験を補う重要な要素ではありま
すが、「経験」そのものではない弱さを常に内包しているのです。

さて経験論を母としてアメリカで発達したプラグマチズム哲学に裏打ちされた現代
経営学におけるリーダーである経営者の有すべき「KAEの原則」のKは「知識」、
Aは「能力」、Eは「経験」であり、いずれも英語の頭文字から取った物でありま
す。
経営におけるもっとも重要な要素の一つとして「経験」が述べられているのは、こ
れが無い人間はどんなに知識や能力があっても、経営者として無能力に等しいから
であります。
そのうえ人間の「知識」の起源は「経験てある」と考えるイギリスで主流の「経験
論」という哲学上の立場があります。これはヨーロッパ大陸的合理主義、理性主義
と対極の思想・哲学であります。アメリカで発達したプラグマチズム哲学も経験論
の範疇に入る哲学なのであります。  とすると経験論哲学から考えると経営者の
究極的に有すべき資質は「経験」と「能力」だけで良く、経営上の必要な知識は経
験から得れば良いとさえ言えるのであります。それほど経験は人間にとって重要な
要素なのです。
書籍からの知識の収得が極端に優れており、信じられないくらいの
量と質の知識を持っているエリートと言われる人種は、経験が不足していることが
唯一の欠点と言われていますが、そんな生やさしい事ではなく経験論哲学から言え
ば経験が無いということは「知識が無い」のと同義語であることをまず我々は知ら
なければなりません。

つまりエリートは書籍に記載されている確定的な知識や再現性のある知識や論理的
知識については無敵と言えますが、そのような知識より更に重要な根源的知識であ
る自分と他者との無数の場面における誠実に行うコミニュケーションや駆け引きの
知識、人間の行動そのものに対する知識、確率的に発生する膨大な不確定な事実に
対して対処する知識、人をひきつけるリーダーシップを発揮するための人間的な知
識そしてそれらを組み合わせて多くのことを成し遂げる実行力を発揮する知識など
書籍に書かれていない知識が決定的に不足しているのです。
有名私立幼稚園、有名私立小学校、中学校、高校、そして東大などの超一流大学の
卒業などという良い子集団に囲まれた、まるで良いことばかりの手厚く守られた観
葉植物の成長記録のような経歴は少なくとも、過酷な自然環境が渦巻く野生の現実
の人間集団の中では「根源的に必要な知識が決定的に不足しているのです。」
その点まだ公立幼稚園、公立小学校、中学校、高校とサラリーマンの子供、大工の
子供、魚屋の子供、公務員の子供、ヤクザの子供、良い子、意地悪な子、金持ちの
子、貧乏な子など大人の世界と変わらない環境で競争しまた協力し書籍にはない知
識を得て成長した国民大衆の子供たちの方が良いことも悪いことも混在する野生の
中で生きていくたくましい知恵を身につけているという点でエリートを目指す子供
たちより「現実の世界にどうしても必要不可欠な知識をより多く持っているのであ
ります。」科学技術系職務と大きく異なり、文科系の職務には特にこのような「本
に書かれていない知識を経験から習得する重要性があるのです」。

このように本に書かれていない知識が極端に不足しているのに平気なのが日本のエ
リートであり、それに比べて経験論とプラグマチズム思想と帰納推論と機能的国家
論で武装したアメリカのエリート達は、本に書かれていない知識の重要性を極端に
理解しており、まず色々な分野でひどく積極的に「経験を積むことに努力するので
あります。」織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という日本の歴史を作り上げたエリー
ト達は現代のエリートとは全く異なる経歴と経験を得ていたのです。彼らは「書籍
の知識や論理的訓練ばかりを詰め込まれたエリートでは決してなかったのです。」
彼らは正に書籍の知識や論理的訓練を超えた知識に長じていたのです。

つまり現代においても文科系職種では正に書籍の知識や論理的訓練を超えた自らの
経験に基づく本質を見抜く確かな価値判断に基づく経験による知識がエリートに強
く求められているのです。
「経験」の本質は「生きた知識の源泉」と「歴史的連続性(過去・現在・未来)」
と「未来への予測能力」だからであります。
「自分の行動が周囲にどのような影響を与え、どのような方向に物事が進んでいく
か、的確に予測する能力が無ければ、多くの人間を率いるリーダーとして現在の行
動が決められない」からであります。
経営は常に未来を予測して現在の行動を決定する分野だからであります。

9才の時小学校を中退して満足な学歴も無く奉公に出た松下幸之助氏が自社を世界
的企業に育てあげたのは、東大を出たからではないのです。
もちろん知識は独学で得たのでしょう。  しかしそれが天才的に優れていたので
なく、同氏は「経験」を、「知識」に生かすのが天才的に優れており、未来への予
測能力も豊かな経験が磨いてくれたのだと考えられます。
この点経験が最も不足しているのが、超エリートと言われる官僚や現実に正面から
ぶつかった経験の少ないエリート国会議員なのです。
その点大衆は日々現実と向き合い「事実の経験」は豊かであるので、未来の予測能
力は高いのであります。
したがってエリートがいくら誘導政策をとっても大衆は自分なりに未来が納得でき
なければ行動を開始しないのです。
そして「机上の知識・理論」のみで政策を立案しても「経験不足で未来が予測でき
ず」「失敗する政策が多いのです」。
その多くの理由が「人間というものへの理解」の「経験不足により」「その政策に
よる大衆の行動や対象者の行動の未来予測が的確でないことによる」のです。
つまり大衆に受け入れられない政策は結局の所「遅かれ早かれ大衆によって淘汰さ
れる現実を経験的にしっかりと認識していない」所に問題があるのです。

全体主義や共産主義など国家の存続に関係するほどの大きな主義・政策でも例外な
く内外の大衆の淘汰作用が働いてつぶれて行くことを、皆さんが目の前で見て経験
している通りなのです。
ましてや小さな政策などで大衆に受け入れられない場合の末路など消滅以外ないの
です。
そしてIT革命などと称してインターネットの普及にアメリカが全力を尽くしてい
るのは、これが人間一人一人の「自由」「平等」の条件下での意志表示の手段とし
て民主主義の普及の最も有力な武器になり、民主主義的でない国家にも民主主義を
根付かせるのに役立つ有力な武器になり、また情報収集の役に立ち同時にそれがア
メリカの安全保障に役立つと判断したからであります。
元々インターネットはアメリカの軍事技術の情報収集の中心技術であり、核戦争が
開始された場合、核爆発の電磁作用による通信の途絶に対処するために網の目のよ
うに針めぐらされたネットワーク網の生きているどの部分からでも「迂回して通信
を確保するため」に開発された技術なのであります。
また我々の便利に使っているカーナビも正に人工衛星を使った軍事技術そのものと
言っても良いのです。
インターネットは現代では経済的効用も大きな要素ではありますが、それがアメリ
カが考えている第一義的な要素ではないのです。
26.国家の予算の使用は、どのような方法でも結果的に全額が消費市場へ還元さ
れる性格上、成熟国家になった場合は「産業関連表」の効果が薄くなったわけであ
りますから、産業関連表にあまり拘泥することなく「国家の非効率な改善すべき緊
急の課題に積極的にあたる」ことが望まれます。
国家が人間環境に対して善悪、適不適に明確に区分して経済道徳に合致した対応す
ることが、結局経済社会の進化発展に寄与するのです。



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