(日本の消費税の成り立ち分析と不正直、不誠実性について) 

消費税の成立過程において昭和天皇の御立場については戦前、戦中とは全く異なっ
ていますが一人の人間としては「病床の天皇陛下個人へ正確な情報が届いていなか
ったのではないか」については当時と余り変わっていないように感じられ、それが
「結果」として昭和天皇の意に反して日本へ大きな問題を生じていたのではないか
と思っています。
日本の敗戦時、情報が錯綜する中一人の人間として判断を誤らなかった昭和天皇を
敬愛する私としては本件について感情的、感傷的になることをお許しください。
ヨーロッパの争いから発生し理念観念の争いで始まった第二次大戦が勃発し、多く
の努力が払われたにしろ、結果としてそれに参戦し戦争開始から昭和天皇の意向を
無視した宣戦布告無き真珠湾攻撃をはじめ第二次大戦中軍務官僚からの多くの誠実
で正直な助言を受けられなかった昭和天皇が昭和20年8月15日御一身の判断で
未来が不確定のまま敗戦の詔勅の玉音放送を行い、無条件降伏を受諾した行動こそ
が日本を救い、戦後の平和な日本を築けた最大の理由と考えています。
さて私は英明な昭和天皇が極めて重篤な状態である事を、昭和63年9月新聞やテ
レビで知っておりましたので、この次も天皇陛下御自身が安らかな御死をもって、
将来厄災をもたらすであろうこのヨ−ロッパ的消費税導入の国会審議を中断しこれ
を廃案にお導き頂き昭和20年の終戦時と2度にわたってこの日本を御助け下さる
と深く信じておりました。
ところが当時相当数の国民が異様と感じた信じられないような医療的処置(食事も
とれないほど病状悪化が長期間続いているのに3ヶ月以上に渡る総計30000C
Cに及ぶ大量輸血による栄養補給の延命療法という聞きなれない療法)が取られ陛
下は昭和63年9月19日の大量吐血から何回もの危篤状況のなか輸血を続けるこ
とによってこれを医学的には乗り越え、しかし結果として長い御苦しみの末に昭和
64年(平成元年)1月7日に崩御されたのです。

 そしてそのわずか15日前の昭和63年12月25日国民の60−70%(世論
調査の結果)が反対する中、政党による党議拘束や緘口令によって混乱の数ヶ月に
およぶ(病床に伏す天皇陛下の状況と平行して)国会において、自由であるべき国
会議員の自由な議論や採決の自由を奪った国会審議の末、消費税は成立したのです。

「日本最高法規の憲法には人間個人への権利と国家運営の選挙権規定があるが、企
業や政党の組織体の権利と選挙権規定が全く存在しないことで明らかな通り、組織
体は人間個人の下に位置する人間の社会経済生活に役立つ手段に過ぎない市場経済
原則があるのです」
 人間は企業や政党という組織体で活動するからこそ利害を調整する自由平等(対
等)競争政策が重要になり「人間つまり国民個人と国会議員個人が上位で、企業や
政党という組織体が下位であるという絶対性原則」から出発するのです。
 結局民主主義国家の進路は政党や企業内の多数決意志ではなく、国民と国会議員
個人の全員の自由意志による判断の総和の多数決によって決定されなければならな
いのです。
 従って政党等の組織体や他の特定の人間の影響力から離れた自由な国民と、国民
を代表する国会議員個人の、その時代時代の自由な議論と良心に基づく判断の総和
が過半数かどうか、で決定するシステムが独占組織体内の正しい内部競争原理(構
成員による)つまり正しい民主主義なのです。
 政党による議員個人の締め付けなどは、まずマスコミが取り上げるべき憲法違反
であり、もっての他なのです。
 憲法上、国会議員は国民と全く同一に、個人として尊重され、立法その他国政の
上で個人として最大の尊重を必要とする(憲法13条)。
 何人も思想、良心の自由(憲法19条)および一切の表現の自由(憲法21条)
を保障される憲法の規定があるのに、政党による国会議員に対する党議拘束や金銭、
政党人事による影響力行使を合法化していることは、国民に対する公職選挙法12
9条から178条にわたる選挙運動への厳しい規制を通じ国民の表現の自由である
選挙への政党その他の影響力を徹底して排除し、1000円の金銭の授受も許さな
い自由な選挙(個人の表現の自由)を確保する規定と全く矛盾し、国会採決のため
に国会議員を選ぶ国民の選挙と、選挙で選ばれた国会議員の国会採決を差別して取
扱い実質的に国会議員の表現の自由を奪う政党支配の合法化となり日本国憲法が全
く予定も規定もしていない、政党本位政治への危険性がある政治形態であることを
忘れてはいけません。
 人間社会はその時代時代の国民の判断の過半数を超える総和が素直に国政に反映
されなければ、成長進化しないのが自由平等(対等)進化システム競争の大原則な
のです。
 それでなければ納税と受益の二重人格を持つ五感に敏感な経済環境適応能力を持
つバランスの取れた国民の意志と意欲が国家経営に適確に反映されないからなので
す。
 したがって競争社会で必要な政治システムは国会議員個人が政党やその他の影響
力に左右されず、最高裁判所の判事のようにその時代の国民に適応する適切な政策
を国民のために良心と良識に基づき提案したり採決投票する国民の代表である国会
議員個人の判断の総和こそが大切なのです。
 国民は自分の意見に合致した議員を選べば良いのです。
 これに最も近いのが、アメリカの特殊な政治制度であり、だからこそアメリカは
世界一の経済成長力を維持しているのです。
 アメリカは印象と違い全国組織の政党組織が存在せず、したがって党委員長も党
総裁も存在せず、国会議員自らが支持している政党を主張しているだけで政党支配
は強固ではなく、政党が国家議員を支配しいる大部分の他の国と全く違い政党より
国会議員個人優位の政治システムなのです。
 従ってアメリカの国会議員は「自らの生き残りの為に自由平等(対等)競争思想
を座標軸に国連にも誰にも頼らず有権者のその時代時代の考え方を重視」して活動
するのに対して、日本の国会議員は「自らの生き残りの為に所属する政党や政党幹
部の考え方を重視」して活動しているのです。

 だからこそ日本では「憲法の基本を無視した競争理論をわきまえない日本のエリ
ートの勉強不足」が明らかとなり他国が実施しているからとか、多数決原理だから
とか理屈をつけて基本を無視し政党重視の比例代表制や政党組織を強化する政党助
成法を立法してしまうのです。
 国家のような独占組織体の中に、個人の意志と意欲に影響を与える強固な組織を
作ることを容認することは国家が人間ではない血の通わない理念観念を振り回す組
織(超少数の人間に支配される政党)に支配され、国民の過半以上の意志と意欲と
かけ離れた国家となってしまう危険性が常にあるからです。

つまり陛下への延命療法がなければ陛下の葬儀日程に相当の日数が取られるため消
費税は日程的に成立出来なかったのです。
私の勝手な思い込みかもしれませんが、消費税の国会審議の状況と昭和天皇の病状
の発生時期、病状の切迫した状態から昭和天皇の本能的な本意は「日本の将来に問
題を引き起こす消費税の成立は御身の死をもって阻止する」と感じていたのです。
つまり生物学博士であり、生物の生死を良く知り生物のあり方に詳しい陛下であり
ましたので、あの延命療法には陛下に似つかわしくないと強く感じたものです。
人間はいずれ死を迎えることには絶対であり、例外は無く当たり前のことなのです。
この当たり前のことと理解した上で、であるからこそ人間の生や死の選択は絶対的
にその本人自身の意志に任せなければなりません。
ましてや国民の統合の象徴である天皇陛下はその地位にふさわしく行動されるよう
補佐するのが政府官僚の役目であり「御身と御心をつつがなく安らかに天寿を全う
して頂くことこそ臣下のつとめ」であるはずとかんがえておりました。
ガンの末期における苦しさは大変なものだということを知る我々にとって、あのよ
うな延命療法で御身と御心が安らかであったかどうかはなはだ疑問に思っているか
らであります。
崩御後に宮内庁と政府官房長官からの発表によればご高齢とご体力から「陛下には
ガンであることを秘し積極的な治療を避け」長寿を全うしていただくよう努め、諸
般の事情から、従来病名を「慢性膵炎」と公表していたが、最終診断は「十二指腸
乳頭周囲腫瘍(いわゆる癌)」であったと発表している。
担当医師だけの問題ではない政府官僚のリーダー達が行った、これらの処置が国家
元首の立場にある天皇陛下を「人間的でかつ人間の根元的な判断として」正しかっ
たと言えるのかという点なのです。
一つは国民の象徴という役割を最大限果たされた人間天皇である「陛下個人」に病
名を偽って伝達していたのではないかと言う点と二つ目は長い間「国民」に対して
も同様に病名を偽って発表していたという点なのです。
これが正々堂々と宮内庁と政府の発表でなされたのに、マスコミも何らの批判もし
ないという点が「真実」や「善悪の判断」や「正直で誠実な対応」を最重要視しな
い日本という国家の異常な側面なのです。
けっしてこれは情緒的な問題として片付けられる種類の問題ではないのです。
第二次世界大戦ではこのような情報操作によって、如何に多くの英霊が犠牲になっ
たのか、また昭和天皇陛下自身最後には軍部の情報をほとんど信用されず自分自身
の判断でホツダム宣言の受諾を行った経緯を知るにつけ「日本の本質」はまだまだ
変わっていないと言わざるを得ません。
したがって延命療法が天皇陛下の御為に行われたものであり、万一にも消費税の成
立のためにあのような延命療法が取られたのでないことを祈っているのです。
さもないと昭和天皇陛下は第二次世界大戦、更にこの消費税導入のため自らの意志
を大きく二度に渡って臣下であるはずの政府官僚によつて歪められ裏切られたこと
になるからであります。
ポツダム宣言受諾を決意され、日本をお救い下された聡明で人間性にあふれた昭和
天皇陛下の事実としてのお苦しみと死の上に成立できた消費税には日本の未来は無
いとその当時から確信しておりましたが、この12年間の消費税導入後の日本の政
治、経済の混乱状況をつぶさに見続けていると、因果応報であり正にその報いであ
るという感を深くしております。
これを解消し日本の未来を明るくするには、当時の国民世論の意志に思いを致し、
また昭和天皇の本意に思いを致し消費税を再検討すべく徹底した論議を期待したい
と考えています。
進化システムにおける環境に相当する国民の真の意志から離れた「エリートの思う
ままに人間(国民)環境を制御しようとする政策がどれほど効果の無いものか」又
「どれほどの問題や副作用を引き起こすか」、政治家の皆様はその後の政治状況の
長い混乱に思いを致し、官僚の皆様は自らの職場の環境の悪化、待遇の悪化を身に
しみて思いを致し、マスコミの皆様は自分達の行動が正しかったか反省し読者の減
少の痛み感じることが、自らの取った行動が必ず自己回帰的にエリートの皆様自身
に降りかかってくるこれらの問題の良い教訓でありまた良い経験になるのです。

さて全くの同時期のアメリカ大統領レ−ガンも同じく癌と闘っていたのですが、日
本の対処の仕方と全く異なっているのです。
本質的によく似ている日米両国ですが、生死とか重大問題になったときの対処の仕
方がその国の根本的な哲学や思想が明瞭に表れて来るのです。
その意味でアメリカは見習うべき国なのです。
レーガン大統領は在職中1985年(昭和60年)7月、10月、1986年(昭
和61年)1月、1987年(昭和62年)1月、7月と5回癌やポリープの手術
を受けており、さらに前立腺肥大の切除手術も別個に受けており、常に真実を包み
隠さず国民に知らせ、国民も心から手術の成功を祈ったのであります。
つまり誠実に正直に真実を共有する大切さは国家を運営する場合何よりも重要であ
り、思惑で真実を隠匿したり、歪めたりすることは許されないのです。
ましてや公に関することは尚更なのです。
さてレーガン大統領は退任後アルツハイマー病によるボケが進行し始めた事を率直
に国民に知らせ自分の変わる姿に理解を求める旨のメッゼージを国民に出し、今で
は昔と変わってしまったレーガン元大統領でありますが、アメリカ国民は暖かく愛
し見守っているのであります。
「正直に誠実に対応する価値観を最重要視し」生きるために個人で戦う姿を最も愛
するアメリカ人気質を強く感じます。
さて理念というものは国家目標や日本国憲法に規定された具体的内容達成を目指し
たものでなくてはなりません。 「抽象的で目的が明示されない」理念の設定は理
念そのものをあやふやにしてしまうし、予想もしなかった間違いの原因になります。
理念は目標達成のための政策という「適切なルールを作る目的」の為の重要な「手
段」になるからであります。

この良い例が日本の消費税であります。
この1989年の日本の消費税の理念について大蔵省は「公平、中立、簡素な税制
の構築」とその基本理念を述べています。
消費税を採用せず現在のアメリカ経済の基礎となった法人税、所得税の抜本的改正
を行った1985年のアメリカの税制改正の理念は「公平、公正、簡素(for 
economic gross 経済成長のための)」となっています。
両国の理念は全くよく似ていますが、アメリカの理念には「経済成長のため」とそ
の目的がはっきりと述べられており消費税を導入しなかったアメリカの結論は日本
とは正反対なのです。
それではこの目的と結論を除けばこの2国の理念は全く同一ではないかと思うくら
い似通っております。理念の違いを「国民の幸福を追求しているか」「誠実で正直
か」の観点から検証してみたいと考えます。
まず「国民の幸福を追求しているか」については、何のために「公平、公正、簡素」
という理念で税制を改善したのか「その目的」をアメリカでは明確になっています。
「経済成長」こそが、インフレ無き、失業率の減少に効果があると同時に、企業の
利潤増、国民一人一人の所得増をもたらすからであります。
そしてこの税制改正はプラグマチズムの精神がつまった改正だったのです。
それに対して日本の消費税導入の「目的意識」は何だったのでしょうか。
結局「理念」のみで「目的」は何も述べられておりませんでした。
無目的だったのか、国民に明らかにできないような目的意識(例えば景気、不景気
に関係なく一定の税収をあげられるようになど官僚の都合の良いように)だったと
しか考えられません。
日本の消費税の理念は目的や目標のない官僚的な理念「(後で目的を達成できない
場合の責任を追及されないようにする)」の典型的な事例なのです。
結果的に国民の幸福を追求しなかった消費税の導入であることは、その当時の理念
に具体的に目的を明確にできなかったことでも明らかです。
次にどちらの理念が「誠実で正直か」の問題です。
日本が初めて本格的に取り入れた間接税である消費税の理念とアメリカが従来から
ある直接税の改善で使った理念が良く似通った「公平、中立、簡素」の理念である
ことに驚きを感じています。
1989年の日本の間接税である消費税の導入の理念が、消費税の導入を見送った
それ以前の1985年のアメリカの直接税の抜本的改善の理念を言葉の上でほぼま
ねた事は事実であります。
抽象的理念というものが、正反対の税制の理念で使われており、いかにいいかげん
に使われるのかの見本のようなものです。
具体的理念や具体的目的で無い限り抽象的理念の言葉の羅列は、羅列すればするほ
ど言葉の罠にはまり危険ですらあるのです。
自国の税制について日本もアメリカもどちらも自国の税制が公平、公正と述べてい
る以上、国と国との見解の相違でありますので、この間接税の公平、中立問題やこ
の根本的概念である応益負担か応能負担かの神学論争には踏み込まないでおこうと
考えます。
ようはどちらが「より多くの国民の幸福にとって望ましいか」「どちらが結果とし
て国民生活にとって良い結果を表したか」であってアメリカという大国の出した見
解と実績を正しいと見ると、日本の消費税が公平、中立、簡素で国民の幸福の追求
に役立つとは全く言えない事だけは確かです。
日本経済が世界一になったと言われ、逆に低迷の一途であったアメリカ経済が平成
元年に日本へ消費税を取り入れてから12年後の現在の日本経済に未来は無く、ア
メリカ経済は信じられないほど強大になり国の財政赤字を見事に黒字化した経済状
況(但し貿易赤字を黒字化出来ない根本的なアキレス腱があり、今後10年以内位
にはアメリカが最も嫌うドル安なるのではないかと思われるが、変動相場制である
以上ドル安になればアメリカの輸出企業は潤い、ドル建て債務の負担は軽くなるの
であるからドル安の副作用はアメリカにとって悪い事ばかりではない)を見ると、
日本は第二次世界大戦の敗戦に匹敵する大失策(持続的総需要抑制策・日本国内に
おける経済の過剰性の持続的縮小)を消費税導入で犯してしまったのです。

しかも三年八ヶ月で英霊の努力と300万人の犠牲にも拘らず第二次世界大戦は日
本国中を焦土と化し、国も国民も無一文になってしまったが、逆に短期間に日本の
潜在的冨の再分配(財閥解体、農地解放など)さらに民主化、自由化、大衆化がア
メリカGHQによって人為的に進められ進化システムの導入によって戦後の日本の
発展の礎になったのです。
つまり政策というものによって、常に人為的に国も国民の生活も変えられるのです。
その政策が正しければ「多くの国民が幸福になれるし」間違っていれば「多くの国
民は不幸になるのです」。
この簡単な現実を是非日本のエリート層にわかってもらいたいと思うのです。
失敗する人(国)は、悪い事(政策)を異常に実行する。
普通の人 (国)は、良い事(政策)を普通程度に実行する。
成功する人(国)は、良い事(政策)を異常に実行する。

こういう目で色々な人も国も見てみれば、わかるものです。
景気を良くしようとする目的を掲げているのに拘らず、景気の足を引っ張りつづけ
る消費税を強化するという(そして逆に消費を規制しない法人税、所得税を減税す
るという最悪なシナリオをとる以上消費税率の再引き上げは避けられない)根本的
に悪い政策を取りつづける以上、景気は決して回復しませんし景気回復には失敗す
るでしょう。
ついでながら「景気の回復」の定義には、2つあると考えられます。 これは区別
して考える必要があります。
一つ目の定義はインフレを収束させ企業業績の回復のみを言う場合であります。
簡単で非常に論理的に整合性がある方法で、したがって一時的に株価もある程度回
復します。
しかし家計の回復は考慮しない(失業率は増大したまま)方法であります。
これはヨーロッパ型の定義であります。
その基本的手法は消費規制課税を主とし、所得規制課税を最小とする手法なのです。
国や地方公共団体が多数の失業者の生活を面倒見るわけでありますので、民間企業
はスリム化が可能であり、人件費等の削減で企業業績は回復するのです。
つまり民間企業の人件費を国が肩代わりする論理的に整合性のある政策なのです。
しかし国の財政負担は失業者対策、年金対策、健康保険対策、金融対策と膨大にな
ります。 この方法は縮小均衡の方法であります。
しかしいずれ国の財政負担は企業か家計が負担せざるを得なくなり必ず増税問題が
発生し、さらに需要は縮小し新規産業の本格的創出等は絵に書いた餅に終わるので
す。
経済的敗者を多数産み出し、人生にチャンスが少なくなるので閉塞感が強く自殺者
が増加します。 民間活力は弱体化し、国への依存心が強くなります。
しかしながら一部の競争力の強い企業は独占の中で生き残り株価は維持できますし、
国家は貧しい大衆に援助を与える官僚国家として維持できるのです。
したがって官僚の重要度は高くなります。
二つ目の定義はインフレを収束させ企業業績の回復と家計収入の回復(失業率の減
少)の両方を達成して始めて景気回復と定義する場合であります。
この方法は論理的な整合性が無い不可能への挑戦であります。
これはアメリカ型の定義であります。
基本的な手法は消費規制課税を最小にし所得規制課税を主にする方法です。
これは人間の本能である好奇心などを通じ常に消費が無常(常なし)の経済社会の
中で時間の経過と共に等速度または等加速度で増大する事実を受け入れるプラグマ
チズム的政策で消費規制を最小限度とし、同時に科学技術の発展と共に供給力が等
速度または等加速度で増大する事実を受け入れる立場をとり、これを如何にシンク
ロナイズさせるかに力点を置く立場であります。
国の財政負担は金融対策、失業者対策、年金対策、健康保険対策のいずれにおいて
も少なくてすみます。
これは拡大均衡の方法です。
企業も家計も順調であるので、自助努力で解決が可能であり、問題自身の発生が少
なく国の財政に依存する必要がなくなるからであります。
増税の必要もなく、減税すらも可能になるのです。
失業率が低下するほど需要が国内に満ちているので、新規産業の本格的創出は国が
何も手を貸さなくても簡単に可能となります。
経済的敗者は少なく、人生にチャンスが多くなるので、開放感があり自殺者は少な
くなります。  民間活力が強化され、国への依存心は弱くなります。
しかし官僚の重要度は低くなります。

さて最後の「簡素」については、日本の消費税については「大嘘」であり、「不誠
実で 不正直な表現」としか言い様がありません。
1つ新たに大税目を増やし、さらに原料の調達から生産、加工、卸売、運搬、小売
に至る各過程において、一品一品の商品の売上と仕入について消費税を計算し集計
しさらに帳簿に記帳するする手間は膨大であり、その複雑さと手間とコストを日本
中の企業と消費者について計算すると、この新税の為に新たに追加された複雑な手
間とコストは莫大な額になることは明らかであり「簡素というのは不正直でありま
す。」
この大幅なコスト増も日本の産業の競争力の低迷の一つの原因になっています。
アメリカでは徴税コストを計算する場合、必ず民間の徴税コストと官庁の徴税コス
トを合算して総徴税コストを算出するのに(アメリカでは官民合算すると膨大な徴
税コストがかかる上、消費税のように複雑大量の事務作業を国のためとはいえ、無
料で民間企業が計算して申告するなどということは考えられないことも消費税を導
入しなかった大きな理由である)
「日本では官庁の徴税コストだけを計算して徴税コストが安いとか事務が簡素であ
るとか」官庁だけのご都合とその膨大で複雑な作業を無料で民間に押し付けておい
て「簡素、簡素と唱えて」平然としている、官僚のみならず学識経験者を始めとす
る日本エリート層の神経構造には唖然とします。
国民の命を一銭五厘と表現した戦前の思想と何ら変わりはないのです。
このような考えが日本の本当の意味での競争力を阻害していくのです。
同様にヨーロッパの官僚主義的経済(付加価値税制)も決してアメリカ経済にはか
なわないのです。

本書は消費税がヨ−ロッパから導入され、そして日本での成り立ちからその利害得
失まで細部に渡り「分析」しながら、その「本質」を解き明かし、経済に与える強
い影響を検討しながら今後の日本が進むべき税制の方向を明らかにすることに努め
たもの であります。
同時に1億2000万人という膨大な数の国民を導く政策とはどうあるべきかの「基
本的哲学」「論理方法」についてあわせて考えていきたいと思います。
さて私の思想的立場としては、絶対的と思われたニュ−トン力学を大修正して現代
科学が解き明かしつつある事実を素直に受入それに基づく論理を展開していく立場
を取ります。
例えば時間も絶対なものでないこと、空間それ自身も速度、重力によって曲がるこ
と、質量はエネルギ−と等価なものであることなどニュ−トン力学では想像もつか
なかった宇宙の神秘を発見したアインシュタインの相対性原理や素粒子の振る舞い
を研究して不確定性原理を発見し量子力学を展開したハイゼルベルグからニ−ルス
・ボ−アに至るコペンパ−ゲン学派のいずれの理論も正しいと信ずるものでありま
す。
しかしアインシュタインは量子力学における「確率的解釈」を誤りであるとして「神
はサイコロを振りたまわず」と述べ、ホ−アに論争を挑んだが「事実は量子力学に
合致する結果ばかりであり」その論争にことごとく破れたのは有名な話しでありま
す。
アインシュタインでさえ生涯この事実としての「確率論的解釈」に対して懐疑的で
あり、「事実を素直に受け入れる難しさ」を強く感じると同時に事実を素直に受け
入れる大切さを感じるのです。
アインシュタインの相対性原理でさえ、どのようなスピ−ドの慣性系でも光速度は
一定であるという通常の常識では考えられない事実を素直に受け入れたからこそ成
り立った原理だからであります。
不確定性原理とは素粒子の位置と運動量は同時に精密には決められないという原理
なのです。
ニュ−トン力学では当然両者は同時に決められるはずであったのが、事実は決めら
れなかったのであります。
素粒子の運動量を正確に測定すると「位置は確率的な存在」になり、位置を正確に
測定すると「運動量は不確かなもの」になってしまうのです。
「論理」は精密化を求めれば求める程、「目的」から離れてしまうのです。
つまり政策担当者が「論理」ばかりに気を取られると「国民の幸福や国民のため」
がぼやけてしまったり、イザヤ・ベンタサンが日本人とユダヤ人で述べているよう
にユダヤ教の律法の「神をあまり敬い過ぎてはならない」という考え方の中に(神
を敬うあまり大神殿を建設しようとして、市民や奴隷を苦しめてはならない)この
不確定性原理と同じく一つの要素にこだわり過ぎると必ず弊害が生ずることの危険
性が表されている。
したがって不確定性原理により素粒子の世界でさえ「確率論が入ってくる以上絶対
的な論理性は無い」ことが分かったのです。
我々の身体、例えば脳は結局素粒子で構成されております。
したがってその素粒子の振る舞い自体に「絶対が無い」以上、人間の脳の内部で起
こる「判断や政策」にも「絶対や王道など」というものはなく、強いていえば「い
くつもの選択肢の中では一番良いとか一番悪い」などの確率的相対評価にならざる
を得ないのです。
そこで最も大切なことは、いくつも「選択肢」をあげ、それを素直な心で事実と向
き合い実証的に比較検討する態度なのです。
例えば皆さんが毎日見ている「光の特性」は「粒子の性質」と「波の性質」と二つ
の性質を同時に持った物であるのです。
こんな物を人間は形としてイメージすることは全く出来ないのです。
しかし粒子でしか作動しない観測機で調べると確かに光は粒子であり、波でしか作
動しない観測機で調べると確かに光は波なのです。
そこにはそれがいずれも事実であることを受け入れざるを得ない現実があり、物質
は波の性質を持っているとするド・ブロイの物質波の考え方は理論的にも実験的に
も証明され、物理学はこの仰天するような不可解な現実を受け入れざるを得なかっ
たのです。
したがって最先端の科学でさえ「事実としての結果が全て」なのです。
人間の考える論理や理念などと言う物は事実の結果と比べれば遙かに底の浅いもの
なのです。
そしてもう一つ大切なことはリチャ−ド・ド−キンスによる最新の動物進化論によ
れば、動物の進化と行動は「遺伝子自身が生き残るため利己的と利他的に振る舞う
利己的遺伝子」によるものだとという説であります。
人間の身体は利己的遺伝子の運び屋にすぎず、利己的遺伝子は自分のコピーを、増
やすことのみを目指して行動すると分析しているのであります。
そして動物の行動は「利己的行動」と「利他的行動」の二つに表れ、いずれも自身
が持つ「生き残るための利己的遺伝子」の働きと解釈されています。
さらに高等動物では、彼らの持つ「文化」がその種において利己的遺伝子と同様な
働きがあることが知られている。
そしてそれらの利己的遺伝子による行動は高等動物の場合生き残るための判断は
「選択」と「淘汰」を通じて発揮されるので、自ら自己決定性のあることを強制的
に選択を妨害するやり方は利己的遺伝子(人間の本性)の性質に全く反しており「強
い閉塞感」を生じさせ文化の発達に逆行するものである。

ここに「生き残るための損得判断」という人間の根源的選択行動の由来があると考
えられます。
この説は非常に説得力のある仮説であり、多くの事実と合致しており、人間自身や
「人間の行動を理解する場合」に有力な手段になります。
但し一部については人間に都合の良い解釈が存在し、その説自体も自然淘汰説の延
長にすぎないと考えられますが、進化論に新しい視点を持ち込んだのは事実であり
ます。
人間は所詮霊長類の一種であり、「利己的遺伝子に操られ」「他の動物や植物を捕
食して生命を維持しており」「生殖を通じて種を保存している」以上その行動はき
れいごとの論理だけでは済まされない動物としての遺伝子、本能、文化に強い影響
を受けているという事実を前提に論理を構築していかなければならないことを理解
しなければなりません。
その点、財政学者が何人に対しても選択の「余地の無い税制(売上に一定割合をかけ
るだけ)」として消費税を位置付け、確実に逃げ場が無く徴収出来るので、「良い
税制」だと考えているのは、非科学的であり且つ根源的に大きな誤りであり、利己
的遺伝子による税を支払いたくない衝動によって「持続的総需要抑制効果を発揮」
しているのであります。

その上で国家100年の大計を考えると、「経済発展の最も大きな要因となる税」
が選択の余地を妨害するものである以上「科学技術の進歩の遅れ」「設備投資の不
活発化」さらには「文化の進化の遅れ」の原因になるのです。
逆に法人税では従業員にボーナスを支払ったり、設備投資を実施することを選択す
れば費用として処理されるので税は軽減される。
つまり税を支払って内部留保をするのも良し、ボーナスや設備投資を実施して納税
額を減らすのも良しというその時々の経済状態や社内事情に応じて経営者に選択の
余地を残した税制なのであり、生き残りのための利己的遺伝子の働きを信じ容認し
た税制なのである。
そしてボーナスを支払ったり、設備投資をすれば、確かにその企業からの税収は減
少するが、支払を受けた従業員の所得税は増収になり、設備投資を引き受けた会社
の利益から税収増を勝ち取れるのです。
つまり風が吹けば桶屋が儲かるという深遠な経済学の原理が働くのです。
そして需要は増加し経済は発展するのです。




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