(日本の直接税制の現状とシステム的改善について)

(1)日本の税務執行は法人税を主体に考えられているが、これは大きな誤りであ
ります。
法人は法的存在として存在するに過ぎず、事実として存在するのは「人間」だけで
ある以上、アメリカと同じく人間に対する所得税を中心に据えるべきであり税務行
政を根本的に見直す必要があります。
全ての経済活動には事実として人間しか介在しないが、複雑な人間の所得獲得行動
を正確に把握することは大変難しく、それゆえ人間中心の税務行政が必要になるの
です。

端的な例として日本の所得税制では企業が納付するサラリーマンから徴収している
源泉所得税は確かに国の機関である税務署が企業からの総額の納付を受け付け「総
額管理」しているが、「その内訳が誰がいくらであったかは税務署は全く関知して
いないシステム」になっているのです。
会計監査院も民間の債権管理では全く考えられないこの様な基本的問題を、戦後5
5年以上何故改善するよう指導しないのか不可思議というしかありません。
したがってこの「税務署が管理している総額」と「実際の個人個人の勤労者の納税
額と一致しているのかどうか」、私はいつも不安の目とどうしてこれがいつまでも
改善されないのか長年疑問に思って見ているのです。
(2) そして個々のサラリーマンの給与や源泉税明細は税務署ではなく本人の住所
地の市町村長へ報告するシステムになっている上この個々の違った市町村に居住す
るサラリーマンの所得税額の企業別総計が税務署へ納めた企業別源泉税納付税額と
のチェックなど全く実施されていないのです。

したがってサラリーマンの所得状況の把握は税務署では一部を除いてほとんど行わ
れておらず、しかも住所地の市町村が徹底して行っているかというとそうでもない
極めて無責任な状況になっているのです。
その点アメリカはサラリーマンと言えども税務署に申告するのでシステム的に税務
署で一元管理が為されているのであります。
つまりアメリカでは人間について一元管理しているのであります。
日本はシステムの効率を追い求める余り基本をおろそかにしているのです。
(3)「区分とか区別」と「差別」の問題は全ての政策で重要になります。
日本人がゴチャマゼにしやすい概念なのです。
物事の善悪や適不適の判断やその重み付けや重要度の判断のための「区分や区別」
の概念と「差別」の概念を混同してはいけないのです。
この差異の基本は「区分や区別」は現代の我々個々の人間や人間社会にとって役に
立つ必要なものであるのに対して「差別」とは我々個々の人間や人間の尊厳にとっ
て不必要なもの、してはいけないものと考えれば概ね当たっていると考えられます。
また税の基本的な性格として、税は所得の有る人または資産を持つ人から徴収し、
所得の無い人または資産の無い人からは徴収しないという原則論を打ち立てなくて
はなりません。
もちろん金が無いのに借金して自動車を買った人にかかる自動車税などの場合はや
むをえません。
なぜならば自動車を買う買わないの判断つまり自動車税を払う払わないの判断は自
らが選択した結果だからです。
つまり税は所得又は資産の有る人には強制的に、また所得又は資産がなくても税を
支払うことを選択した人に選択的に課税すべきなのです。
ここに税の倫理性が存在するのです。所得や資産や資産の無い人に税の支払いを強
要することは中世封建時代のやり方です。
そのような事を強要した時代は決して経済は発展しませんでしたし、科学技術も発
展しませんでした。

5−6年前イギリスの鉄の女と言われたサッチャ−首相に引き入られた政権が取り
入れた「人頭税」は演繹論的に言えば最も公平で平等な税制でした。
何故なら全ての国民は平等に公平に行政サ−ビスの恩恵を受けている以上、所得の
有無、資産の有無に関係なく、平等に一人づつに支払い義務を負わせた人頭税制を
発足させたのであります。
これは中世にも存在した税制でありました。
しかしその結果は、支払い能力の乏しい母子家庭などを直撃し、税を支払えない母
親などを多数投獄(税を支払えない以上イギリスでは投獄は当然のこと)せざるを
得ない事態になり、特に貧困層からの厳しい反発と社会不安まで引き起こし、あの
最強と思われたサッチャ−政権は大規模な暴動の中、人頭税制度発足後1年も立た
ないうちにつぶれ、結果として人頭税制度そのものも廃止されてしまったのです。
つまり中世ならいざ知らず現代の進んだ税制では直接税である所得税、法人税では
所得の無い人、資産税では資産の無い人には課税しないという原則で運営されてい
るのに、それと正反対の税制だったのです。
しかし直接税の場合、出来るだけこれを厳正に実施するために、所得の補足方法(例
えば納税者番号制など)の拡大を納税者も容認しなければなりません。
フランスなどのようにお上に個人の懐の中に手を突っ込まれたくない国民性を持っ
ている国民には向いている税制とはいえません。
フランスでは消費税制が向いているのです。
たとえ15%の失業率があってもお上に個人の懐を覗かれたくないのです。
しかしアメリカや日本のように個人の懐の中を公表されることにさほど抵抗感が少
なく、それよりも不正に税も支払わず金を貯め込んでいる不正利得者には厳しい処
置を望む国民性を持っている国民には向いている税制なのです。
つまり直接税は税に対して自己申告意識が高く、経済成長志向で失業を嫌う自助努
力型の国民に向き、間接税は国に個人の懐を覗かれたくない経済発展より現状維持
を好み、最終的に国に依存する気質が強い国民性(全ての国民は税を間接的に平等
に支払うのであるから国に多くの事を要求したくなる)に向いているのです。
このように直接税、間接税には利害得失があります。
その利害得失を列挙すると以下の 通りとなります。
(1)日本の税制には「政策がない」とよく批判されるのは財政学者が「税は逃げ
場を無くして取るもの」としてしか意識していない所に問題があるのです。
税は財政学者のためにあるのではありませんし公務員の給与を支払うためだけに存
在するのでもありません。
より良い政府を作り国民がより良い生活を享受するためにあるのです。
税はそのための手段に過ぎないのです。
国は税収がなければ運営出来ない性格上、日本国民はどのみち同じ額の税を取られ
るなら、経済や社会の進化に役立つ良い結果をもたらす取られかた選択するはずで
す。
税はその性格上、人間にとって「もっとも逃れたいものの一つ」であるがゆえに、
その課税の仕方によって経済に大きな影響を与えるのです。
ヨーロッパ人は経済が発展せず失業率が高くても国からの給付が多いことを望んで
いるので、高率の付加価値税が定着しているのです。
しかしアメリカ以上に「勤労にこそ最大の価値観を認めている日本人は経済発展や
失業率の低下」を強く望む国民性が強くヨーロッパの国民性とは対極を為すくらい
全く異なるのです。
したがって日本は日本人に適応した税制を選択しなければなりません。
そこで税に対して脱税ではなく各種の行動や戦略を選択出来る直接税こそ日本人の
利己的遺伝子のもたらす自由さと満足度を人間に与えながら税を徴収するところに
日本人の国民感情に合致しているのです。
さらに直接税には企業経営者に対する所得分配の促進や民間設備投資の源泉となる
設備投資意欲の増進という税の大きな副次的政策効果があるのです。
しかも所得分配した結果取れたはずの、税を逃したわけではないのです。
その企業から徴収出来なくても設備投資先の企業や勤労者個人の所得が高まればよ
り多く税が徴収できるのです。
しかも勤労者の所得増によって更なる個人消費の増加が見込め、その上設備投資に
より生産性の向上も期待出来るし、裾野の広い企業群への収益の向上も期待できる
のです。
つまり風が吹けば桶やが儲かるという深遠な経済学の真理が働くのです。
消費税にはこの効果が全くありません。
期末に決算賞与を払おうが、従業員へ大幅な昇給をしようが消費税納税額には何ら
影響がないつまり経営者にとって人件費への支払が何らの節税効果のなくメリット
も無いのです。
また中堅企業以上の原則課税企業者は設備投資をしても消費税が付帯してくるので
それを負担せざるを得ず、設備投資をしたからといって何ら消費税額全体が節税さ
れるわけではないのです。
これでは税は国民全部に強制適用しながら「ただ国が取るだけの存在でしかなく」
選択の余地も副次的効果もないのです。
税に対してでさえ一定の範囲内で選択肢を認めることが生き残りのために価値の多
様性を求める人間の本性にかない、自身がコントロ−ルしている満足をえることに
なるのである。
ところが日本のエリ−ト層と財政学者が作り出した消費税体制は「極めて人工的で、
逃げ場が無くて閉塞感が強く、選択の余地がなく、事務的で、無機質な税制」であ
ります。
そこには「ダイナミズムもなく感動も無い税制」なのです。
経済政策を重視するアメリカではこのような税制に全く依存しておりません。
アメリカ企業は小売売上税の課税を逃れたければ非課税のサービス業を始め製造業、
農林水産業、建設業、卸売り業と膨大な非課税産業を選択し変更できるのです。
だからこそアメリカではサービス業などが発達するのです。
しかしやはりこの税制にも消費税ほどではないが小売業・飲食業に望ましくない消
費規制効果があります。
「したがって日本が直接税一本になれば、世界で最も経済成長に寄与する税制シス
テムを持つ国へ変身できるのです。」
したがって私個人としては人間の本性にあった課税方式を好み、人間の本性を離れ
た人工的な論理で組み立てた税制を好まない強い傾向があります。
この点法人税、所得税などの直接税は、もっとも人間の本性に合致した税制と考え
るから であります。
つまり自分だけは利益を上げたいという利己的遺伝子の働きによる所得の獲得行動
とそれに課税することによって生ずるこれを逃れるための利他的行動(労働者への
所得の分配や設備投資の実施など。 これとても長期的に生き残りをかけた税の支払
いとの損得計算の上での利己的遺伝子の働きと解釈して良い。)への誘発という他
の方法では為し得ない経済効果と課税徴収とのバランスのとれた優れたシステムと
考えるからであります。
もし法人税、所得税を0とし、消費税を超高税率にした場合を「思考実験」してみ
ると、強者の企業群のみ生き残り寡占化が進み、勤労者への所得の分配は進まず、
サ−ビス業は発展せず膨大な失業者が生み出されます。もちろんだからといって政
治家も官僚もエリ−ト層も国も滅びません。
ただ個々の低所得者層の膨大な数の人間が困るだけなのです。
国はいろいろの施策を打ち出すでしょう。
しかし結局は何年かけてもいくら財政支出をしてもせいぜい「下方の縮小均衡点で
均衡するだけ」で大幅拡大などは全く望めず膨大な失業者の生じ景気の上昇も望め
ないことがいずれ分かるでしょう。
しかも財政赤字を解消するなど、とても出来ない相談なのです。
景気が上昇しない以上、 税収は上がらないし、無理に上げようとして消費税率を高
めれば余計景気は後退するし、どうにもならなくなるのです。
しかも財政支出は失業者が多い以上増えるばかりなのです。
失業者を冷たく処遇すれば、社会不安が発生します。
その恐ろしさは決して甘くはないのです。人間は全てを失うと失うものが何もない
ので何かのきっかけで暴発し狂気を生み出すからです。
したがって財政支出は増やさざるを得なくなるのです。
したがって財政赤字は縮小する どころか益々拡大していきます。
しかし財政支出はどこかで切り捨て縮小均衡でどこかの均衡点で均衡するのです。
これを経済用語で言うと悪循環と言うのです。
もちろん直接税中心の税制で所得分配の促進とそれに伴う個人消費の増大や、設備
投資意欲の増進など「経済の良循環化」を図っても、どんどん経済成長が続くわけ
ではありません。
やはり経済には、コンドラチェフの波のような成長期と停滞期の循環が現れるのは、
やむを得ません。
しかし今の日本には停滞したままで、成長がありません。
これが異常であり大問題なのです。
つまり経済の循環が消滅してしまったのです。
これを異常と感じない経済学者、官僚のなんと多いことか、愕然としてしまいます。
問題は法人税率、所得税率を下げれば下げるだけ、景気が良くなるという誤った思
想が蔓延している点にあります。
私見では法人税率を逆にもっと高くして、代わりに費用への規制を緩和すれば通説
に反して景気は必ず回復します。
法人税率を引き下げれば景気が良くなるというのであれば、日本にも法人税0%の
組織が存在します。
官公庁、宗教法人、社会福祉法人などです。
しかしこの組織の下層の職員の給料の増額は、組合か、組合に代わるもの(人事院
など) が無い限り増額は難しいのです。
上層部は利益が出れば自分自身の権限で増額するのはたやすいことなのです。
しかし力の弱い下層の職員の給与の増額には利益に強制的に税が全く課税されない
以上所得分配する動機が存在せず余程善意が無い限り積極的になる理由はありませ
ん。
どんなに多額な利益が出ても法人税を徴収される心配が無い以上、それを貯めてお
くか、他の資産に転化し自らの資産的な力を誇示した方が有利だからです。
これからもわかるように法人税が0の世界は所得分配が進まず必ずしも経済的倫理
的に良好な社会を作ることにはならないのです。
逆に法人税率100%の世界では、所得分配はより速やかに行われるでしょう。
しかしながら法人内部に所得が内部留保されない以上、資本主義的拡大再生産(自
己資本の増殖)は保証されず資本主義を維持しようとする意欲が衰えてしまいます。
しからばどの位の税率がもっとも適正なのかの議論があります。
その議論の前に法人税、所得税について「慈善事業、社会事業に対する寄付行為に
ついての国民性」を考えて見なければなりません。アメリカは国民一人当たり日本
の200倍以上の寄付を行っております。
これらの寄付は事実上「税」とその効果はあまりかわりがないのです。
国とか地方公共団体を通じないで(したがって税ではない)直接事業を行う人に寄
付するのです。
アメリカの富裕層、イスラムの世界の富裕層にはこの国民性(メンタリティ−)が
強く存在するのです。
この存在が希薄な日本ではこれを税で徴収し実行しなければなりません。
ここにアメリカより法人税、所得税をその分高率にする理由が存在するのです。
さらに気を付けなければならない事は減価償却の耐用年数と償却方法を実務上アメ
リカと比べて不利にならないように設定をすることである。
さらに法人の利益に加算する調整項目である費用限度超過額は出来るだけ廃止する
ことで ある。
法人の会計原則上の利益と税法上の法人所得の乖離は実状への判断を益々不透明な
ものにし百害あって一理なしだからであります。
加算項目を増やして、税率を低くしてもこれは事実上、見かけだけの変更である上、
根本的に実状をこ塗し実態が見えにくくなるからであります。
法人税率は低くしすぎると、アメリカのように所得分配機能の働きが弱く、資本配
当にこだわり過ぎる傾向が生じます。
アメリカの法人税率に寄付率を加算した税率を日本の法人税率にすべきなのです。
(地方税も含めて)
決算期末に所得分配機能や設備投資機能を意識せざるを得ない程度の法人税率の高
さ(そのまま決算し納税する法人割合が50%程度、税負担を逃れるため所得分配
や設備投資を決算内に実行して決算する企業が50%程度の割合となる)が望まし
いのである。          ここに経済成長の目が生じるのです。
法人税率を高くすると企業が日本を脱出するという議論がよくあります。
しかしこれには大きな誤りがあると思います。
法人税率が高かろうと、安かろうと海外に出た方がコストが安かったり、企業が有
利であれば企業は海外に出ていくのです。

問題は法人税率より為替相場を購買力平価に維持しようする国家の意志の方が重要
なのです。
法人税率だけの問題ではないのです。
ただペ−パ−カンパニ−を作り、法人税の低税率地へ本社を移転する企業に対して
は、詳しく所得内容を補足する手段を認め、アメリカのように移転価格税制で厳し
く取り締まれば良いのです。
不正を認めない厳しい姿勢を国民の全てが持つべきなのです。
甘い姿勢の国にこそ、アンフェア−で不正がまかり通るのです。
そして大事な事は、利益を出しうる豊かな市場をいつでも提供出来る環境やシステ
ムを備える事なのです。
そうすれば逆に国外から日本に定着する企業も出てくるのです。
出て行きたい企業は出ていけば良い。
それを埋める企業は別に必ず現れるものなのです。

それよりも豊かで実りある市場を企業に提供する事、形式的な国外脱出は厳しく取
り締まる事、輸入品と国内生産品の正確な表示区分を消費者にわかりやすく行うこ
となど情報公開することが企業が国外に脱出するのを防ぐ最善の手段になるのです。
けっして法人税率が高い安いが主たる原因ではないのです。
分配は更なる経済成長の源泉となり、設備投資の実施は更なる生産性の向上に資す
るからであります。 これらの効果は消費税では全く望めないからであります。
つまりその税制自身どれだけの多様な付随効果を持つシステムになりうるのかが問
題とな るのです。
また消費税問題の本質を解き明かすために、人間の行動という曖昧なものをより科
学的に分析するため科学的手法としての素粒子の研究におけるシュレジンガ−の猫
などで有名な「思考実験」の考え方を取り入れるとともに、四日市公害訴訟裁判で
有名な「疫学的証明」(疾病を集団現象として観察することによってその原因を間
接的に証明する方法)を取り入れて議論を進めてゆきたいと思います。
つぎに人間が物事を推論する場合対象が科学的なものであろうと社会的なものであ
ろう と2つの方法があることを指摘したのはアリストテレスであります。
より特殊的な(個別的な)事例からより一般的な法則を導き出す「帰納推論」とい
う方法とより一般的な法則から特殊な事例を導きだす「演繹推論」という2つの推
論方法が存在するのです。
日本は明治初期ドイツから取り入れた法律体系が成文法中心の大陸法であるため論
理の構築が演繹推論が主であり、英米の法律体系が判例法中心で論理の構築が帰納
推論中心であるのと対照的なのであります。
帰納推論は特殊な個別的事例を沢山積み重ねるという作業があるため、非常に個別
の事実を重視する推論方法であり、かつ時代とともに導き出される一般法則も時代
に合わせて柔軟であり、かつ進化するという点を自らのシステムのなかに内包して
いる推論方法であります。
また結論を出す場合常に「過去はどうであったか」を検証するメリットとデメリッ
トをこの推論システム自体に持っていると言えるのです。
さて演繹推論は科学の分野では「過去の研究から絶対的真理として確定したものを
一般法則と規定した上で個別事例に演繹した場合その推論による結論は絶対的に正
しい」と言えます。
ところがこれを人間の社会に適用しようとすると、帰納推論に比べて大きな過ちを
犯しやすいという大きな欠点があります。
つまり演繹推論は時の指導者に都合の良いように利用されやすいという欠点があり
ます。
たとえば演繹推論はロ−マ法の影響をうけた大陸法国家が得意とするところであり、
特にドイツはその中心的存在であります。
ところが一般的法則を作る過程で指導者が誤った一般法則をつくってしまうととん
でもな い問題を生じてしまうことがあるのです。
ドイツから生じた全体主義や共産主義はその指導者に都合の良い耳障りの良いコン
セプトを中心に据えた演繹推論から生じたものであることは明らかです。
人間社会では演繹推論は耳障りは良いが間違ったコンセプト(大東亜共栄圏、五族
協和、ア−リア人の優位性、労働者社会の建設など)を取り入れると当初の意図と
どんどんかけ離れ大きな間違いを犯すことがあるのです。
つまり演繹推論は帰納推論より論理的な絶対性において極めて厳格であり強固な論
理を構築できるが、ひとたび誤った考え方を一般法則であると誤解すると、人間の
持つ洗脳されやすい傾向(洗脳されやすい傾向は種を保存するための利己的遺伝子
の働きによる利己的行動と利他的行動を持つ人間の特徴かもしれない。)とあいま
って事実を歪曲や錯誤して論理が展開される危険性がいつも内在することになるの
です。
したがってこれを抑制するための文化やシステムが重要になります。
たとえば「表現の自由や言論出版の自由」もこの人間が洗脳されやすい特徴を緩和
するための手段なのかもしれません。
さらに帰納推論はその推論方法が持つ本質的性格によって歴史的連続性を重視する
ので「日本人とユダヤ人」におけるイザヤ・ベンタサンが言う具体底があり進歩や
進化が遅いが平凡な知識しかない人間にも理解しやすく応用しやすいのに比べ、演
繹推論は一般法則が変更された場合飛躍的な進歩に向いているが極めて高い知識を
持った人間でないと 正しく論理を構築することは難しいという欠点があります。
したがって私は科学分野における推論方法は帰納推論が新しい発見や発明に重要な
役目をしている所から、人間の社会生活でも帰納推論に重きを置く現場重視の帰納
推論を主、演繹推論を従とする立場を取るものであります。
つまり理論とは事実を最も都合良く説明出来る論理に過ぎないという立場でありま
す。
つまり一つでもその理論に合わない事実が見つかると、その理論は正しく無いかも
しれないと疑問を感じて差し支えないのである。

つぎに法治国家を作り出す法律体系のあり方について考えてみたいと思います。
帰納推論を主として用いる英米法体系では個々の裁判の結果がそのまま法律効果を
生み出す判例法主義を取っており、演繹推論をとるヨーロッパ大陸国家はそれと全
く異なり成文法主義を取っているのであります。
同じ帰納推論国家であり判例法主義をとるアメリカとイギリスの決定的違いは国家
が大衆主導国家かエリート主導国家かの違い、つまり議会において政党の超エリー
トが存在しない国家か存在する国家かの差異と、その根本にはイギリスには希薄で
あるアメリカ哲学の主流であるプラグマチズム哲学の存在があり「人間に役立つか
どうか」を真理の基準にしており、論理性は必ずしも重要視しない考え方である。
したがってプラグマチズムは絶対的論理性が豊かなヨーロッパ哲学に比して世俗的
で低く見られる傾向が強いが日本にも「過ぎたるは及ばざるが如し」など非常にプ
ラグマチックで奥深いことわざが多数残されている。
また伊達政宗公遺訓にも「仁」に過ぎれば弱くなる、「義」に過ぎれば固くなる、
「礼」に過ぎればへつらいとなる、「智」に過ぎれば嘘をつく、「信」に過ぎれば
損をする、と述べておりその地方を統治した日本の戦国武将の生死をかけた諺の多
くにはブラグマチズムが溢れているのです。
しかし現代の日本のエリート層は一定のコンセプトに目が眩むとそれから派生する
論理性ばかりを重視するあまり、「その考え方が人間に役立つかどうか」のプラグ
マチズムの視点がすっかりぬけ落ちてしまうのが最大の欠点であります。
さらにプラグマチズムから発生する考え方に「費用対効果」「評価の重視」の考え
方があります。
さてアメリカでは独立宣言で「自由・平等・幸福の追求」をうたっている。
これがアメリカ建国の基本理念であります。
この「国民の幸福の追求」は非常に重要な判断基準であり、全ての政策目的はここ
に収斂しなければならないのであります。
良く似たものが日本国憲法第25条全ての国民は健康で文化的な最低限度の生活を
営む権利を有する。
ここにプラグマチズムの必要性、重要性が生じてくるのであり、フェア−の概念の
維持や、通貨金融システム、独占禁止法などアメリカの基本システムは人間の自由
・平等・幸福の追求のための「手段であり、道具」なのです。
このため最良の道具は必ずしも最善の論理性や、論理的整合性を有している必要が
なく、せいぜい大衆が納得する程度の論理性を有していれば良いのであって必要な
のは道具として最高の機能を有しているかどうかだけなのであります。
したがってアメリカの歴代政府は「国民の幸福追求の権利を守るため」にその時代
時代の主力企業を敵に回し、税金を最も良く支払っているはずのNO1企業と独占
禁止法違反や数々の訴訟で争い続けており、現在でもマイクロソフトを始め有力な
税金多額納税企業と「環境問題や企業の独占の弊害問題で良い悪い」の争いを展開
しているのであります。
先日もマイクロソフトを独占禁止法違反で提訴したアメリカ政府が勝訴したばかり
です。日本では考えられない事です。
日本政府はヘタをすると国民ではなく税金多額納税の有力企業を擁護する側にまわ
ることさえ多いのです。
アメリカでは政府や国会議員・官僚の存在でさえも、「国民の幸福の追求」の道具
に過ぎず役に立たなければ淘汰すべきと考える徹底した機能的国家論やプラグマチ
ズム意識には感服せざるを得ません。
したがってアメリカでは公的組織である国家や地方公共団体は国民大衆の意志を最
大限度尊重するボトムアップ形式で運営され意志決定が構築されていますが、アメ
リカの民間会社は逆に徹底したトップダウン形式で意志決定が構築されております。
これは進化システムにおける内部競争方式と外部競争方式の違いを明確に意識した
各々の組織の進化を進めるための最適な運営方法を選択しているためなのでありま
す。
日本では特に国家や公的組織の運営や意志決定をする場合アメリカと逆に国民大衆
の意志とは関係なく国家のエリートのトップダウンで構築されている国家制度の意
志決定方式に依存しているのは何故でしょうか。
これは地球上全ての事象や生物に適用される進化論、システム工学上の進化システ
ム論から見てアメリカが国家などの公的組織と民間会社の組織原理を全く別なもの
と認識し区別して運用しているのは進化論の教科書的運用であり、最も原理原則的
国家運営を正しく実践しているのです。
外部競争のない日本の国家や公的組織がトッブダウンで組織や意志決定が為されて
いることは実は日本の国家制度などが民間会社のようにトップダウンで振る舞うの
が当然という優越的国家観や国家組織の本質を突き詰めて研究されておらず民間会
社のように運営すれば効率的になれると誤解し続けていることが最大の理由なので
す。

それこそが日本の国家組織が成熟経済に達した時点から全く進化システムに適応し
ておらず、日本国家が進化しない最大の原因になっているのです。
さらに結論を導き出すまでの「索敵能力の高さと正確さ」(問題点の把握能力)は
アメリカは相変わらず群をぬいて高いのには感心させられます。
日本は相変わらず極端に低く不正確なのです。
さて最後に国の政策においてプラグマチズムの思想における最大の判断基準につい
て私なりの考え方としては、
第一優先順位 人類のためになるか
二優先順位 日本国民のためになるか
の順で考えなければならないということである。
つまり本論の消費税問題はこれを日本で廃止しても日本経済の需要が拡大する以上、
人類のために好影響こそあれ悪影響は無いと判断され、したがってこれは日本国内
問題として日本国民のためになるかならないかで判断すれば良いのである。
次に消費税の廃止を前提として、それに変わるべき直接税の再構築であるが、所得
税、法人税、相続税については次のように考えています。

日本国憲法やアメリカ憲法で規定されている「幸福追求の権利」と「生まれながら
にして平等」である世の中を本気に現実に実現するには、生まれてきた赤ん坊が最
初から親の所得や財産状況によって実質的に将来の幸福が「極端に左右される」経
済的差別社会では「フェアーでない」のです。
「民は足らざるを憂えず、等しからざるを憂える」のであるから、「自由(フェア
ーな)」と「平等(対等な)」のルールは何にも増して尊重されなければならない
のです。


昭和20年8月15日の日本の敗戦により全ての財産と秩序が「無」になり、全て
の国民が焼け野原の中に呆然と立たされ、農地解放、財閥解体、新円切替などの強
制的手法により資産や所得が分散、個別化し貧富の格差が実質的にほとんど無くな
り、努力次第で誰でも切り取り自由で、平等で民主的な社会のスタートラインに立
ったことが、それ以後の爆発的な日本の経済発展につながったことは明らかなので
す。
したがって戦争のない平時にもこれに似た国民合意の強制力が発揮され貧富の格差
が開き過ぎない状態に保たれ、誰でも出来るだけ平等に社会のスタートラインに立
てる状態つまり直接税中心の社会に100%でないにしろ近づける工夫と努力は必
要なのであります。
したがって所得や資産が極端に偏在しないよう所得や資産の分配システム構築に努
力することが「結局活力ある社会の実現に近づけチャンスが多くの人に平等に与え
られる社会」を建設出来るのです。
つまり国が相続税で国民から資産を徴収しても、それは色々な形で国民に分散され
るのです。
そこで最大の問題なのは「死」が無いゴーイング・コンサーン(永続企業)であり
相続が発生しない企業に「有限な土地」の所有を無制限に無規制に認めている日本
の税法であります。
相続が発生しないと言うことは未来永劫に会社がつぶれない限り土地の所有権は変
わらないと言うことであり、土地所有が固定化したまま「必要な人に土地の分配が
進まない」という国民の幸福のために資すべき土地政策が決定的な問題点を内包し
ているのであります。
人間には「死」があり土地の所有権はそれに伴って必ず移転するという現実と死に
より発生する相続において富の集中は多額の相続税が課税される相続税法の存在と
が複合効果を表し人間個人に土地の集中所有を防止するシステムが完成しているの
に対して、会社つまり法人に対しては日本の税法では最近作られた地価税という法
人の土地の分散効力がある税制が数年ならずして凍結され機能しなくなっているの
は本当に残念でなりません。
特に有効利用されていればまだしも野ざらしになっていても法人所有の場合は未来
永劫に固定化され分配されないという大きな問題点があるのです。
昭和21年2月13日対日占領軍総司令部案つまり日本国憲法の元となったマッカ
ーサー草案が示され国民主権の憲法を制定するよう督促が行われ、その主な内容は
現日本国憲法にほとんど取り入れられているが、そのマッカーサー草案には「土地
及び一切の天然資源の究極的な所有権は国民の集団的代表者としての国家に帰属す
る」という一項があり、現日本国憲法では第29条の財産権の規定の中に「財産権
はこれを侵してはならない。A財産権は公共の福祉に適合するように法律でこれを
定める」という穏やかな表現で納められているが、その根本的な占領軍総司令部の
マッカーサーの考え方は草案の通りだったのであります。
つまり日本人の既成概念ではアメリカはガチガチの私的所有権の絶対性を主張する
国家と考えがちなのですが、実は55年も前の保守的なアメリカでさえ有限な土地
などについては、まるで共産主義に似た概念を持ち土地所有権の絶対性などは全く
考えられていなかったのです。
つまりプラグマティックに「絶対的概念である国民の幸福を追求するため」には、
日本の資本主義や常識では絶対と考えられていた土地所有権でさえ相対的な概念で
しかなくどのような管理方法が良いかを柔軟に考えるところがアメリカ的なのです。
つまり国民の幸福を考えることが絶対的な価値基準であり、土地所有権などは守る
べき絶対的な価値基準ではないのです。
対日占領政策の一環となった農地開放政策つまり少数の不在地主によって長年小作
農として貧しい生活しか出来なかった日本の大多数の農民を自作農に転換させるた
めに行った政策もこの考え方に基づいて行われたのです。
つまり貧しい人への哀れみや施しの感情ではなく、「自由」と「平等」と「国民の
幸福追求の権利」という憲法で定められた絶対的な概念を達成するために農地解放
政策は実行されたのです。




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