(筆者の理論イメージ・国家と民間企業の全く異なる経営目標と競争
 原理)


十数年来の国家の経営者層による、「日本の特殊な国民性という事実を考慮しない」
で行っている進化システムの原則に反した政策運営について「将来に深い憂慮と経
済の危険性」を強く感じています。
さらに国家と民間企業との比較において進化システムから導き出される「各々の経
営原理の明確な相違」を意識した「民間企業の経営原理と経営目標と全く異なった」
国家運営でなければ、成熟経済において経済成長は不可能なのです。
さて人間の本質は地球上に生息する数百万種類の生物の内、人間のみに備わってい
る特殊な性質、本能が「文化や経済の過剰性」であります。
地球上に生息するどのような動物でも、その種に応じて「食物の範囲」とか「興味
の範囲」とか「行動のパターン」は本能によって自ずから狭い範囲に限定され「そ
の種独特の非拡大性の固定的な文化のようなもの」を形成しているのでありますが、
「人間の脳には好奇心と知能がコンピュータープログラムのFOR NEXTの無
限ループのように備わっており、言語と文字を発明し論理能力と記録能力を保有し
たため、その文化は際限のない広がりを見せ停滞や退歩が無く前進や拡大あるのみ
なのであり、人間は生存のため以上に際限なく文化や経済の過剰性が拡大する性質
を有する地球上唯一の生物なのです。」
「人間の持つ経済の過剰性の拡大」こそ「経済成長と経済の拡大をもたらす根本原
因」であり「人間の文化の過剰性の拡大」に、その根源があるのです。
さて国の経営において、国という限定された領土と国民で構成される閉鎖経済系(購
買力平価を実現するため輸出入同額とした場合の国内経済は概念的には閉鎖的にな
る。 以下同様)つまり内需を拡大するには、自ら自己回帰的に進化システム的に
有限の領土と国民を基礎に自らが国民と共に進化発展拡大する以外に拡大の方法は
無いのです。
民間企業は自由貿易体制下の開放経済系(世界中の無限の需要へ向かって現実に進
出できる)で活動できるという国とは全く異なる活躍の場が与えられており、国と
民間企業の経営目標の根本的な相違を理解しなければなりません。
ここが始めから自分自身で需要(消費)を創出できないが外国に進出も可能で地球
規模で無限に見える需要(消費)を相手に企業戦略を練る民間企業の経営と、自分
自身で需要(消費)を創出する以外需要(消費)が増加しない国内経済を経営する
国家の経営との決定的な違いが存在するのです。
つまり民間企業は外国に進出しても進化発展できるのでありますが、それが全く出
来ない国家は国自身と国民自身が自己回帰的に進化発展し内需(消費)を拡大する
以外経済を始め全ての社会要素を進化発展拡大する余地は全く無いのです。
したがって国家は消費税のような「消費規制」による「国内の総需要抑制策」を採
用するのは、極端なインフレやバブルの発生期以外採用してはいけないのです。
本書の理論はこれを明確に意識しています。
つまり一国経済が消費の選択肢の増加と科学技術の進展を率直に受け入れ適正に自
己回帰的に進化システム的に自ら進化発展拡大するには「消費の拡大と科学技術の
進歩に対しては国民の幸福の追求に反しない限り規制を行わず自由にさせる」とい
う原則を遵守しなければならないのです。
これを遵守すれば人間の本質の特性と本能に基づき「人間の持つ内なる力」によっ
て自然に本能的に国家と国民は進化発展拡大するのです。
つまり「家計における人間の行う消費を規制しなければ」「現在よりさらに良い生活
をしたいという人間の根源的な本能によって自然に少し個人消費を増加すると」使
用した通貨が直ちに企業を通じて「少し増額した個人所得として還元されるのであ
り」そしてその増額した所得によってさらに少し増額した消費が行われさらに少し
所得が増加するスパイラル的な自己回帰現象に合わせて、国が紙幣を増発する触媒
行為によって一億二千万人の膨大な日本国民が行動を起こし経済は自己回帰的にス
パイラル的に成長するのが経済成長の基本構造なのであり、人為的なバブルの発生
に注意しこれを管理抑制しながら経済成長の正しい方向性を決定するルールを融合
し組み込むことによって経済のその時代時代に合わせた自然な過剰性は徐々に拡大
するのであり、人間生活の向上の手段としての資本主義における資本の増殖拡大も
このメカニズムで行われるのであります。
これは所得=消費+貯蓄(設備投資に活用され消費市場へ還元される)=総消費(企
業の販売額の源泉)のミクロ経済公式の実質的意義なのです。
そして「金融政策」と「財政政策」は、その基本構造の微調整手段でしかないので
す。
そして生産の基本構造はノーベル経済学賞を受賞したロバート・ソロー氏が述べる
如く企業における人間の勤労(労働)と科学技術の進歩の融合によって、新製品開
発と生産性向上が果たされるのであり、更に消費の増加のインセンティブ(動機付
け)として全ての国民に対する所得分配が重要な作用をして生産面と消費面での経
済成長の基礎構造を支えているのです。
つまり「企業の経営目標」は「一社の企業利潤(企業所得)の極大化」であるが、「国
家の経営目標」は1985年のレーガン政権におけるアメリカの抜本的税制改革の
基本となったアメリカ産業競争力委員会の定義を待つまでもなく、「全国民を低イ
ンフレ率で且つ低失業率の経済体制の中で国民一人当たりの平均所得額の極大化」
を計ることなのであります。
したがって「民間企業と国家の経営目標は全く異なっており」、その「指導原理も経
営手法も全く異なって」こなければならないのです。
そこでその基本は「民間企業」では利潤を求め効率経営を行いながら、自由貿易体
制下の開放経済系の中で国内、国外市場の中で競争に打ち勝ちシェアー(市場占有
率)を限りなく伸ばし売上を確保することが基本になります。
しかし「国」には国内市場全体しか存在しないので(閉鎖経済系)、国民一人当たり
の所得の増加を達成するには、これを「需要側から見れば」、国内外の競争条件(為
替相場は購買力平価)を保ちながら国内消費市場全体(閉鎖経済系)について自己
回帰的に自ら国内消費市場自身を進化発展拡大させなければならず、その基本政策
は「消費の増加を抑制する規制の排除につとめ人間の本来持っている自然な本能に
よる消費の拡大を容認する政策転換」(消費の選択肢の増加)によって国内消費市場
の自己回帰的拡大を目指すことこそ必要なのであります。
そしてこれを供給側から見れば既存産業を意図的に切り捨てるのではなく、時間を
掛けて自由な競争(経済の基本の価格政策を適正に保ち競争条件を同一に保つため
為替相場の購買力平価相場を維持しながら)の中で「最悪企業の淘汰」を行いなが
ら普通の既存企業は出来うる限り生き残らせ(このことが失業率の低下と真の競争
状態の維持につながる)且つ同時に新規産業を積極的に育て上げ結果として消費の
選択肢を増加(既存企業の他に新規産業が追加された)すること、つまり「自由な
競争の中で進化システムを作動させ最悪企業を淘汰しながら」多くの消費の選択肢
を提供する分化と系統に分かれた多様で豊かな消費体系、産業体系を実現し誠実に
正直に努力する全ての普通企業が生き残る全産業の保存維持発展をはかることが国
家目標(経済成長による失業率とその反対目標であるインフレ率の同時低下)の達
成の手段となるのであります。


尚、既に明らかなように本理論を構築する上で、実体があるのは人間だけであり、
企業も国も人間が作り出した実体のない法的存在でしかないので、この貯水池(ダ
ム)的な法的存在を考慮して理論構成することは労働分配率など理論に複雑さを増
加させるだけで明確な結論を導き出す為に役に立たないので企業や国の所得や資産
は全て株主や国民のものつまり人間のものとして単純化して本理論では考えること
にしています。      
これは経済を考える場合人間が消費者と労働者の二重人格性を持ち且つ全ての結果
は人間へ収斂するところに、その根源があるのです。

さて具体的に言うとどの動物が生きるために必要でもない遊園地のジェットコース
ターに金を払って乗るでしょうか、どの動物が野球場やサッカー場に足を運んでひ
いきのチームを応援するでしょうか。
この様な行動をするのは、人間だけであり、この様に生きるために必要最小限度以
上のものを求め消費する性質を経済の過剰性と言うのであり、これは人間の根源的
特性であり、これを抑制すると人間は不幸と感じるようになるのです。
医療や福祉さらに年金、社会保険や環境問題などは他の生物には全くない人間独特
の文化や生存本能であり「経済の究極の過剰性」なのであります。
したがって「最低限度、経済の良き方向への過剰性の容認無しには医療福祉年金、
社会保険、環境問題さらに金融問題などの解決は経済的にも全く不可能なのです。」
「経済の過剰性の拡大」は「個人消費(本人以外の第三者へ所得を稼得させるとい
う利他的結果をもたらす)の拡大」が原因となってもたらされるのです。
しかも個人消費は自身で自由に金額も購入品目も決定できる自己決定性がありした
がって自己回帰性もありますが、所得は他から稼得しなければならないので自由な
自己決定性は無くしたがって自己回帰性も無いのであります。
結論から言えば「原材料から製品になるまでの企業対企業」「販売時点における企業
対最終消費者」間で行われる膨大な消費数の経済取引一つ一つ全てに消費税を課税
することで「金の動きと回転を少しづつ鈍らせている」ことは問題であり、これに
その規模の大きさを考慮に入れるとこれが大問題なのです。
織田信長の楽市楽座制度が信長の強大な経済力を築いたことを思い出して下さい。
金の動きは軽やかで回転も早かったのです。

印紙こそ貼りませんが、印紙税を大幅拡大したように全ての経済取引について課税
すれば経済活動が鈍るのは当然のことで消費過小の国民性を持つ日本ではその弊害
は計りしれません。
現代では預金をしても受取金利はゼロに近い状況です。
これも所得から消費に回るカネが消費規制税制によって少なくなり、貯蓄に回るカ
ネが多い為に起こる現象なのです。
消費が少なくなれば企業は生産設備を増強する必要が無く設備投資は必然的に少な
くなり、それに対して家計の消費が少ない以上家計の貯蓄は増加するが銀行は設備
投資の貸し出し先が当然に少ないため金利収入が得られず、増加する預金に対する
金利はゼロにせざるを得なくなるのです。

全ての原因は他の先進国とは全く異なり、日本では女性が全消費の70%以上の決
定権を持っているという特殊社会慣習を無視して消費規制税制を導入し、日本経済
を消費過小体質にした結果に過ぎないのです。
現在の消費規制税制は基本的に総需要抑制政策であり、特に日本のように経済的防
衛本能の強い女性が家計の70%以上の実質的支配の社会慣習が定着している特異
な社会構造を持つ国家では、特にその悪影響が顕著に表れます。
その上消費規制税制の特徴は「累進税率を持たない構造上、例え経済成長が実現し
ても税収の伸びは成長に比例する程度しか実現せず、しかも総需要抑制効果が高い
以上、力強い経済成長を実現することは全く不可能であり、その上増税で財政再建
を果たそうとすると経済成長はマイナスになる可能性があり、場合によっては経済
恐慌を起こす恐れさえあるのです。」したがって財政再建はこの税制では全く不可能
であります。
逆に法人税、所得税の直接税税制は基本的にどのような税率にかかわらず総需要抑
制効果はなく中立政策(油断すると促進しすぎる効果まである)であり、必要経費
の規制を緩やかにすると総需要「促進」政策さえなりうる税制であります。
そのうえ所得規制税制の特徴は「累進構造を持つゆえ、経済成長を実現すると税収
の伸びは成長率をはるかに超えた税収の伸びを実現できる」のです。
しかも人間がよりよい生活のために、よりよい消費をしたいという本能を全く抑制
・規制しないため総需要は人間の本能や理性に基づき自然に増加し、自然な経済成
長が確実に実現するのです。
そして万一直接税の増税(累進税率の上昇変更)が必要な場合は、税法の「必要経
費の規制の緩和」(税の負担者と政策の受益者という二重人格を有する国民の要望
と判断による必要経費の時代に合わせた種類枠の増加)と組み合わせると、所得者
は抑制的ではない促進的な消費を行えるようになり税を合法的に免れようとする人
間の心理と組み合わされ必要経費の「消費」(これによって消費対象商品やサービス
の生産にかかわった人々の所得の稼得が達成される。つまり必要経費の消費は結果
として経済的な利他的行為なのである。)が大幅に増加し、一円の国家予算を使用す
ることなく、しかも増税にもかかわらず人為的に消費(結果として所得も)を増加
させ経済成長を促進し国家財政も再建し国民の一人当り所得の増加が可能なのです。
そして所得規制税率が高いからと言って、外国へ逃避する法人や個人がいるとすれ
ば、自由に逃避させれば良いのです。
しかしその情報は常に日本国民へ知りうる方法を講じなければなりません。
それはそのような法人個人を経済活動の中で支持するかどうかは自由と平等意識を
持つ国民の良識と良心の判断に委ねられているからであります。
そして所得規制税率が少々高くても、消費規制税制が無く経済成長率が高く、失業
率とその反対目標であるインフレ率が低く自由と平等が貫かれ需要が豊かな日本市
場を形成すれば、これに参入してくる利他的意識と利己的意識をバランス良く持っ
た法人と日本を愛する個人としての人間は必ず世界中に存在するから何の心配も無
いのです。
したがつて「別記するようにマスコミによる無責任な直接税の大減税キャンペーン
が無い限り」所得規制税制による財政再建は完全に可能なのです。
そして本理論の中に「直接税の所得分配機能」という言葉が再三出て参りますので
これを簡単に説明したいと思います。
国家が徴収する税収は公務員の給料や公共事業などによって使用され全額総消費市
場に流出する性格があり「正にカネは天下の回りもの」なのであります。
したがつて直接税税収であろうが間接税税収であろうが、所得分配機能は全く同一
と考え勝ちであるがこれは全くの間違いなのであります。
この場合の国家の所得分配機能は直接税制の場合は主として税収の依存先である高
所得の法人、個人から低所得者への所得分配となり、「資本主義下においては高所得
者から低所得者への適正な所得分配は、たとえ国家という巨大な非効率機関を通じ
たコストをかけた資金の移動であったも社会的に非常に意味のある所得分配という
利他的行為」なのであります。
しかし間接税制の場合は主として税収の依存先が人数の多い低所得の法人、個人か
らとなる以上、低所得者から低所得者への資金移動が主となり、なんのために「国
家という巨大な非効率な機関を通じコストをかけて低所得者から低所得者への無意
味な資金移動を強制的に行うことがどのような理屈をつけようと適正な所得分配と
は定義できず膨大なコストをかけまで行う意味のある制度とはいえないのです。」
したがって直接税制には強い所得分配機能はあるが、間接税には所得分配機能がほ
とんど無いと考えています。  これは国家の役割を考えた場合、国家が巨大であ
るがゆえに非常に大きな問題なのです。
主として競争意識による利己的動機で行動する企業や人間個人に対して、国家は主
として平等意識に基づく利他的動機で行動するところに国家の協同体としての存在
意義があるのであり、国家の行動はこの考え方に沿ったもので無くてはならないの
であり、所得分配もこの原則で国家は機能しなければならないのです。

この観点からも直接税制の先進的進歩性が明かなのであります。
さらに重要な点は初の国債発行から25年かかって昭和63年に265兆円の国債
残高に達したのに、消費税導入後わずか11年で401兆円増加し666兆円に達
した原因を徹底的に分析をせず消費税をタブー視する異常さを強く感じているので
あります。
少し詳しく述べると消費税導入前の1979年(昭和54年)から1988年(昭
和63年)の10年間での国債残高の増加は169兆円と年平均16.9兆円の増
加であり、消費税導入後の1990年(平成2年)から1999年(平成11年)
までの10年間における国債残高の増加額は354兆円の年平均35.4兆円の増
加なのであります。
そしてこの両者の年平均18.5兆円もの増加額が生じた「原因を良く調べもせず
対症療法ばかりを行って国民の負担を増している国家経営は落第でありその弊害は
膨大であります」。
重要な事は平成元年に導入した消費税の現在の消費税、地方消費税の年徴収税額は
わずか13兆円であり、その分所得税、法人税、相続税などを過去減税してきたの
です。
つまり単に税金の徴収方法を変更しただけで総税収に変更が無いのに、経済の基本
である個人消費を規制して経済が大不況となり、経済不況の副作用の対策として毎
年18.5兆円もの国債を追加発行せざるを得ない状況に追い込まれているのです。
何と愚かな事でしょうか。 国民が徴収されている総税額は変わらないのに、その
取り方によって経済運営がこれほど違ってしまうのであるという悪い見本なのです。
これは総人件費は変えずに業績給で良い成果を上げていた会社へ給与額の半分に強
制的に年功序列給を導入したために、会社の業績が急速に低下してしまった悪い事
例と良く似ています。 経済学や経営学の現場の実践においては集団としての人間
を「いかに動機付けるかの心理が重要」であり「エリートの机上の論理」では人間
は動かないのです。
これが「結果」であり、これを見落としたエリートもマスコミも共同正犯なのです。
つまり国家が国民へ年功序列給制度を要求し、やむを得ず今まで大部分が業績給(能
力給)で支払っていた給与(税金)の半分を国民の所得を増加させるという業績に
関係なく年功序列給に変更し国民が国家に給与(税金)を支払うことになったため、
国民の所得を増加させる動機付けができなくなった為この様な結果になったと考え
ても良いのです。

さてそこでこれを改め消費に対する一般規制を廃止した場合に経済の良き方向への
過剰性の拡大(経済成長)を実現するにはどうすれば良いのかのルールつまり人間
の本能によって自然にそして正しい方向へ拡大するシステム的ルールを具体的に述
べているのが本書であります。
その根本を理解するには「地球上の全生物のうち人間のみが行っている貨幣経済」
では「消費行動」は「結果」として「多数の第三者へ金銭所得を稼得させる利他的
結果
」をもたらしているという深遠な意味こそが「消費の本質」なのであり、「所得
獲得行動」は「結果」として「自ら一人のみの金銭所得を獲得する利己的結果」を
もたらしているという意味こそが「所得の本質」なのであります。
つまり「消費」は消費者が「その商品の生産に努力した多数の第三者へ所得を稼得
させるという利他的結果をもたらす」ことがその本質であり、これを理解すれば消
費が経済の拡大に極めて有用であり、逆に消費を規制することが経済発展には元よ
り道徳的にも如何に危険なものか理解頂けると思います。
つまり「寄付」は「究極の消費」でありこの意味でも消費を規制してはならないの
です。
そして「所得」獲得行動は「自ら一人のみの金銭所得を獲得する利己的結果をもた
らすのみ」であり、「これを自由放任にすることは資本主義経済では結果として不平
等と金銭的な利己的結果のみ模索する社会をもたらす」ので経済的に元より道徳的
にも規制が容認されるのであります。
資本主義経済体制下では利己的行動である所得獲得行動が直接税によって規制され
国はそれによって税収を得て本人に成り代わって所得分配を行い世のため人のため
利他的行動を行うのであって人間社会全体としては利己的行動と同時に利他的行動
が正に求められているのです。
そして人間は他の生物には無い貨幣経済下において「自己回帰的に増加する消費」
を時代時代に応じて自己回帰的に増加拡大しながら「所得」へ変換して生活する特
殊な動物であるのです。
したがって不況下においても経済を下支えしているのは「現在より悪い消費生活を
したくないという人間心理」の作用こそがその根源なのであります。
そして消費を所得へ変換する仲介をしているのが、経済学的に述べると企業なので
あり、「利己的意識と自己防衛本能を主として持つ人間」へ販売促進活動によって消
費行動を促しながら、同時に所得獲得という利己的結果をもたらす所得獲得行動の
仲介をしているのも経済学的に述べるとやはり企業なのであります。
そして進化システムは結果が全ての世界である以上「結果」をもたらす全ての「原
因」に「自由(フェアーな)と平等(対等な)」条件下で「競争」が行われることを
求められているのであります。
つまり人間は他の動物とは異なり高い知能を持つゆえに「権謀術策に優れ」人間一
人一人の力関係が大きく異なるので、国家のような独占組織における内部競争(国
の構成員である国民の意志決定のための憲法で定められた正しいルール)を公正に
保つには、意図的に「人間一人一人の自由と平等を確保しなければ国全体の利益が
実現しないのです。」
結論として本書は経済問題を国家の主要システムとして把握し、これを人間の自由
と平等条件が確保される中、時代時代の国民全員の良識と良心に基づく消費の方向
性を尊重しながらシステム的に経済成長へ導く方法を述べているのです。

したがって消費行動は利他的結果をもたらすゆえ規制せず、所得獲得行動は利己的
結果のみをもたらすゆえ規制は必要であるという道徳的な結論へ到達するのです。
さて「税金の負担者は誰であるか」を一度突き詰めて考えてみたいと思います。
財政学者、税法学者、経済学者は企業が負担している法人税は企業が負担し、その
企業で働く労働者(勤労者)の所得税、源泉所得税は、その労働者自身が負担して
いると断言するでしょうが本当でしょうか。
しかしそれは法律的な形式的な一面でしかないのです。
簿記論的な会計学的な原価計算的な考え方から延長して帰納推論すると、これらの
法人税、源泉所得税を始め「全ての税金は実は商品価格の中のいわゆるコスト(総
人件費や法人税等繰り入れ額)」に算入されており「実質的に全額消費者が負担」し
ていると言うのが一面の真実なのです。

これは所得=総消費=消費+貯蓄(設備投資)の公式からも明らかなことなのです。
これは経済において実体があるのは人間だけであり、企業も国も人間が作り出した
実体のない法的存在でしかない上、経済を考える場合人間が消費者と労働者の二重
人格性を持っているところにその根源があるのです。
つまりトヨタの車を一台購入した所得税も徴収されていない低収入のアルバイト学
生が実は税金的に言えば「潟gヨタ自動車の膨大な額の法人税の一部を負担し、そ
こに働く勤労者の膨大な人件費に対する源泉所得税の一部を負担している」のであ
ります。
つまり法人税、源泉所得税、所得税でさえ「全国民が消費を通して負担している」
のであり、消費税だけを消費者が負担している特別な税金ではないのです。
つまり「国家の税収の全ては正に消費に依存している」のであり、そして経済成長
の需要側の要因も消費に依存している事実を、正確に理解し消費を規制してはなら
ないという原則を遵守しなければならないのです。
この事実を知れば法人税、源泉所得税などが「消費段階で直接消費を規制せず、し
かも税を意識させず経済効率の増進や所得分配機能を発揮しながら実に巧妙に消費
から税を徴収している事実」を理解できるし、逆に「外税であろうが内税であろう
が明らかに消費を直接規制し日本経済を停滞させる機能しかない単細胞の税制であ
る消費税」の欠点が理解できると考えています。
つまり全ての税収と言うものが、一面では法律上の負担者が負担していると解釈さ
れ、一面では必ず商品コストに加算され商品価格の中に算入され全て消費者が負担
していると解釈される「二重性格を有しているという事実」が存在するのです。
さすれば人間心理にとって「この二重性格のいづれも乗り越え」経済成長の需要側
の要因である「消費を規制せず」自然な増加に任せ消費を良き方向へ導きながら、
順調に税収が上げられ且つ国民を幸福へ導く税制はどうあるべきかについて再検討
しなければならないのです。

ここに国民一人当たりの消費の伸びこそが国民一人当たりの税収増の根拠となる
「事実」を厳粛に受け止め「特に女性が家計の70%以上を管理しているという世
界的に見て特殊な社会慣行を持っている消費過小の国民性がある日本では消費規制
の弊害を強く意識する政策が特に必要なのです。」
消費を規制しては税収もタコが自分の足を食べるような状態に陥ってしまい伸びが
停滞し国家も国民もジリ貧状況へ落ち込むだけなのです。


さらに超高生産性企業が少数の社員で膨大な法人税と高額所得の従業員の高額な源
泉所得税を負担しながらの高額な税負担の商品コストと、低生産性企業が安い給与
の多数の社員と、収支トントンで法人税の負担がほとんど0であり源泉所得税もわ
ずかである企業の低額な税負担の商品コストが税負担での価格競争力の自動均衡作
用を持ちながら競争しハンディキャップを得て低生産性企業もなんとかその効果に
よって存続し両者とも価格で競争できるところに「多くの労働者・国民が経済的に
生き残り食べていける」直接税制の大きな利点があるのです。
この考え方は日本国憲法の国民の幸福を追求する権利にその根拠があります。  
決して日本国憲法に優秀な企業の繁栄のみを追求する権利と規定されていないこと
に留意して下さい。
そして進化論では弱い動物には強い動物には無い「早い足」とか「地面に潜れる」
とか「多数出産」とか「臭いにおい」とか常にハンディキャップが与えられ生き残
れるチャンスが与えられているのであります。
直接税制は正に資本主義経済の中のハンディキャップの役割を担っているのです。
多くの普通の企業に働く労働者・国民が経済的に生き残れれば、そこからまた新た
な消費が生まれ経済は再生産されるのです。
しかしこのようなハンディキャップを与えられた直接税制ルールのシステムの中で
も自由(フェアーな)と平等(対等な)の経済競争の中で生き残れない「常に最悪
企業」は淘汰され、そしてその隙間を埋める時代と共に新たな企業が発生し時間と
共に国民環境に適応した普通企業と優秀企業が併存しながら生き残っていくのです。
そして生き残っている多くの普通企業が生存して競争している状況の中にこそ「真
の競争が存在するのです。」
そしてそこに存在する普通の企業が「将来すばらしく優秀な企業へ進化発展する可
能性」は常に残されているのです。
つまり普通企業を努力させ存続させ「進化発展の芽」を常に残しておくシステムが
自動均衡作用を持つ直接税制なのです。
つまり直接税制下では低生産性企業は従業員が協力し合い片寄せ合ってなんとか生
きていける基盤が残され、七転び八起きのチャンスは常に進化を伴って存在するの
です。
ここに消費が規制されていないため、人間の幸福を追求する本能によって時代時代
に合わせて消費の自然な増加が実現し、機械化による労働生産性の向上を受け入れ
る余地が生じ、その時代その時代に適応した企業の誕生を担保しているのです。
つまり進化論では「最悪の淘汰は必要であるが、普通の企業は全て生き残れる地域
性のある分化と系統が発達したシステムでなければならないのです。」
しかし消費税制では単純に商品の税抜きコストへ一定の税率を乗ずるだけであり担
税力の低い低生産性企業は「消費税の構造上税抜きが出来ない人件費負担が大きく、
したがって税務署への消費税の支払いが高生産性企業より、はるかに多額になり」
担税力の高い高生産性企業との競争で生き残るチャンスは大幅に減少するのです。
したがって消費や需要が増加せず生き残るための競争のみが激化し徐々に寡占化が
進み「普通の企業も生き残れなくなる」うえ、分化と系統が発達しないのでこのシ
ステムは非進化論的なのであります。
そして失業者は増加し不況は長期化し国民は不幸になるのです。

さてこの理論の根拠となる規制の意義については、アインシュタインの一般相対性
理論の支柱になっている「等価原理」つまりエレベーターや加速の良い車に乗った
時に感じる体が押しつけられる感じ(慣性質量)と、ニュートンが発見した何故リ
ンゴは地面に落ちるのかと考えた重力(重力質量)が、見た目には全く異なるが実
はこれは全く同一のものだという本質に基づき等価原理を提案し、一般相対性原理
という壮大な世紀の大理論が発表されたのであります。
その故事に習い人間行動の規制の主たる手段である「罰金」と「税」が、それを受
ける者にとって、ほぼ同一に作用するという経済的には当たり前の「事実に基づく」
簡単な等価理論を提案し、これによって本書は理論構成されています。
したがって家計の消費の70%以上を女性が支配している世界的に見て事実として
の日本の特異慣行下における女性に淘汰・拒否されない税制はどうあるべきかを考
えて行かなければならないのです。
つまり税制を立案し、税を課税する場合何に課税することが経済成長に大きな悪影
響をもたらし、何に課税することが経済成長へ悪影響を与えないのかを、理論的に
も実証的にも立証してからこれを区分区別して立案しなければならないのです。
どのみち「同額の税を徴収する以上経済成長に大きな悪影響を与えない税制を立案
すべき」なのです。
これを正しく認識した上、本書では経済成長を適正に自然に増加させるのに寄与す
る税制を提案しているのです。
つまり罰金と税は全く理念が違いますがその効果は「事実として同一」なのです。

したがって金融政策と財政政策という「需要増加政策に基づく景気刺激策」をどの
ようにとろうと、全ての消費に課税(つまり消費するたびに罰金をとる)する税制
を取る限りこれは「総需要抑制政策の典型」であり、これらの政策ミックスはまさ
に「精神分裂型政策」であり言葉を換えれば「マッチポンプ型政策の典型」であり
ます。
つまり景気改善のため金融政策、財政政策を総動員し膨大な税金を投入し、民間需
要に「火」を付けようと躍起になっても、鯖(さば)や鰯(いわし)で海が銀鱗で
埋め尽くされるような天下の大軍である消費需要に課税を行い罰金を徴収し個人消
費の「火」を消して回る政策は、正に火を付けては消して回るマッチポンプ政策の
典型でありこれによって起こる「経済の悪循環」は止められません。
どのような理屈や理念を持ち出しても、「景気を政策で変動させようとすると針の
穴を糸で通す」位難しいものであり、基本や本質を良く理解し全ての「政策が一点
に集中して初めて効果のある効率の良い政策が可能」になるからであります。
したがって我々はもう一度原点に立ち返って、自由主義的資本主義市場経済におけ
る税制の本質はどうあるべきか大衆はどうすれば行動を起こすのかをじっくりと考
え直しそれに合致した税制はどうあるべきかを再検討するチャンスだと考えている
のです。
さて機能的国家論からの優越的国家論への批判でも明らかなように国は狭い部分社
会でありながら「競争もなく独占的に」全体社会を管理するという「国という組織
自体に競争の結果の倒産や失業という緊張感がない組織」が問題なのであります。
私はアメリカやイギリス的な機能的国家論の信奉者でありますが、大部分の日本の
官僚や多くの政治家は無意識的にヨーロッパ的な国を全体社会の代表と考える優越
的国家論が当然であると感じていると思います。
つまり国内の各種の部分社会に対して国の絶対的優位性を認める論理であります。
つまり国会を動かし国会で法律案や予算案を通しさえすれば、万能であるという論
理なのであります。 民間では決して認められないことでも国がやるのであれば例
外を認めるという原則タブルスタンダードの存在を認める考え方であります。
これに対してアメリカ的機能的国家論では国の絶対的優位性を拒否し国は特定の有
限な目的を持った部分社会の一つに過ぎないと考える立場なのであります。
したがって国の存在理由はその活動の内容が国民にとって有意義であるかどうかの
機能性に求められるところから機能的国家論ともいわれるのであります。

したがってこの国家観によれば国だけ特別扱いはせず民間と同一の原則シングルス
タンダードの考え方に行き着くのであります。
資本主義経済社会においては「所得」に罰金を付すか、「消費」に罰金を付すか、ど
ちらが人間の幸福と生き残りのために役に立つか機能的なのか厳密に再検討すべき
なのです。
さて筆者の理論イメージは既に明治維新において論争になった伊藤博文的な上から
の目的論優先の理念・観念ならびに演繹的論理に則った「優越的国家論」に基づく
ヨーロッパ大陸列強国家に範をとった国家を目指すのか、福沢諭吉的な下からの因
果関係論優先の事実ならびに帰納的論理に則った「機能的国家論」に基づく米英に
範をとった国家をめざすのかの議論に帰着するのです。
筆者は経済発展を達成し「成熟経済国家」となった日本では伊藤博文的な優越的国
家論はその役割を終え、「今後未来は進化システム原理に則った福沢諭吉的な大衆
主導の機能的国家論が経済の良き方向への過剰性を拡大し経済の発展進化のための
手段として遙かに有効」であることを立証すると共に、これを基礎にすべきことを
提案しています。

福沢諭吉の晩年の思想が「当時の力が全ての西欧列強の政治力学に巻き込まれざる
を得なかった」ことは事実ではあるが時代の進化と科学技術の発達と日本国民の民
度の向上が福沢諭吉の理想を現実のものと出来る時代が到達したと実感しています。
更にアメリカを凌駕する「日本の未来維新」を達成するには「政治システムへ進化
システムルール」を米英以上に確立することが不可欠であることを提唱し、重要な
政治課題については「真理は細部に宿る原則から、細部にわたり情報公開した上、
広く会議を起こし万機公論にて決すべし」とし、国家運営費用(税金)の負担者で
あると同時に政策の受益者としての二重人格性を有する常に現実に直面している国
民大衆が実質的な決定権者になることが進化システムルールに則っており、それを
確立することが日本の経済社会を適正な方向へ強くたくましく進化発展させる道で
あることを本書で分析し提唱しているのです。
本書
では「既存の経済学は再現性を重視するため経済成長も一定の前提条件の上で
は良く説明できるが」「前提条件に問題がある場合は、経済成長の本質の分析にあま
り役に立たず人類の発展の歴史に根本的に関わっている人間の本能や進化論こそが
基本的に真に役に立つ」ことを明らかにしているのであります。
つまり「経済学の存在しなかった」太古の昔から地球上で人間のみが行っていた「経
済活動という文化」は、元来「幸福になりたい」とか「生き残りたい」と欲求する
「人間の本質的に持つ特性や本能や経験に由来」したものであり、したがってこれ
を正しく理解して何を人為的に規制すれば良いのか、何を人為的に規制してはいけ
ないのか
を基本に忠実に実証的に判断しながらも国々の置かれている実状、国民性
なども加味して判断し対処することが前提条件に縛られた既存の経済学を超えて景
気回復等の経済問題を解決する場合の最重要テーマになるのであります。
例えば本書の理論が国民の大多数に周知された上で、本書の主張に反してやはり現
行の消費規制税制の方が望ましいという50%以上の国民の判断であれば現行税制
を継続すべきであるし、但しその場合国民は景気の回復をあきらめるべきであるし、
消費税の増税は当然に受け入れて財政再建に努力しなければならないのです。
つまりこれこそが自己責任原則であり、国家と国民は自己回帰的な関係だからであ
ります。  国民自らに責任のない都合の良い国家政策など存在しないのです。
国家を変えるには国民一人一人が自己の責任で自己の判断を変えなければ国家は変
われないのであります。
さてローマ・クラブの提唱している「地球の有限性」の議論については、全くその
通りであり「人口のこれ以上の増加の抑制」と「地球環境の現在以上の悪化の防止」
についてはこれを完全に視野に入れ、経済学でいう経済学的前提条件とは全く異な
る、この問題を根源的な人類生存の前提条件として日本経済が受け入れ遵守する経
済成長理論でなければならないと考えているのです。
しかしながら筆者はローマクラブが地球の有限性という論理の帰結として経済のゼ
ロ成長を提案しているのには、経済の適正な過剰性の拡大を認めない議論であり、
人間の幸福を追求する権利に全く反しており同意出来ないのです。
つまり地球の有限性の中で人口の抑制と地球環境の維持を果たしながら、国民の幸
福の追求を実現するという不可能に対する挑戦こそが、正に国家に求められている
ものであり経済の適正な成長つまり経済の適正な過剰性の拡大である経済成長の方
向性の適正さと成長率(究極的には失業率)のコントロールによって地球の有限性
を遵守しながら国民の幸福を追求するという国の役割が正に現代では求められてい
るからであります。

つまり民主主義も市場経済もそのような意味でシステム工学で定義する「進化シス
テム」であるからこそ、非進化システムの「真の全体主義、真の共産主義」「計画経
済」に時間が掛かっても必ず勝利するのであるし、インターネットは「進化システ
ム」であるからこそ、非進化システムの良く管理されたトップダウン形式で設計さ
れた多くの優秀な情報システムに勝利するのです。
真の共産主義とは、一人一人の人間にとって一日たりとも常無しの無常の人間社会
において「民主集中制という固定的理念の維持機構」を持ちこむ場合を言います。
さて進化システムではシステム工学で言うシステムのルール作りが最も重要なテー
マになります。
そして外部競争原理(企業間競争 以下同様)が働く民間企業などの経営者は法律
に反しない限りどのような強烈な理念・観念を持とうと独裁的経営であろうが民主
的経営であろうが一向に構わないのです。
その理念・観念さえも外部競争原理における「外部競争」(企業間競争)の対象にな
り勝ち残らなければ「淘汰」され良いものでなければ結局消滅するだけだからであ
ります。
しかしながら国のような独占組織という外部競争原理の働かない組織を運営するエ
リートは絶対に自分勝手な強い理念や観念を持ったり構成員へ押しつけたりしては
ならないのです。      それはその強い観念や理念が間違っていても外部競
争によって「淘汰」されない危険なものだからであります。
したがって独占組織のエリートは「構成員全員による内部競争原理」を勝ち登って
きた政策に基づく以外、強い理念や観念を持ってはならないし、その勝ち登ってき
た政策を尊重することが経済社会の進化発展の根源になるのであり、これこそが独
占組織における内部競争
(国の構成員である国民の意志決定のための憲法で定めら
れた正しいルール)という進化システムルールなのです。
つまり独占組織のエリートが予め自ら持って良いのは、「弱い理念と観念」と「強い
内部競争ルールの遵守思想」なのであります。
                
したがって国家運営の場合重要なことは「改革の理念・観念ではなく改革における
進化システムの内部競争ルールの遵守とその結果の尊重なのです」「改革において進
化システムの内部競争ルールを守らなかった一部エリートのみの理念観念による改
革は必ず良い結果は生まれず」「その典型が国家という独占組織において強い理念
観念による一握りのエリートにより指導される真の全体主義、真の共産主義がその
典型なのです。」
そして現在の日本が厳しい経済不況へ陥ったのは、昭和の終わり平成の始め以後に
取り入れられた「国家エリートのみの理念観念による進化システムの内部競争ルー
ルを遵守しなかった二つの改革」が徐々に「悪い結果」を表し始めたのが現在の経
済不況の原因であるとであると筆者は認識しております。
その一つが元々個人の自由と平等概念が確立していなかった日本にさらに政党によ
る国会議員支配を強め国会議員個人の自由と平等の増進に反する反自由民主党政権
によって立法化された「政党強化のための政党への直接助成」を行う7党1会派に
よる政党助成法という政党強化法案の成立であります。
そしてもう一つが筆者が支持している自由民主党政権による市場経済システムとい
う「進化システムの出発点である消費」に対して日本の特殊性も考えずに「消費に
規制」を加えた消費税の導入(特にその時点の国民の7−80%は反対していた)
であります。
したがって筆者の提案は基本的に日本の経済成長が停滞しているのは大きく言うと
この二点の進化システムに反した要素が日本の民主主義システムと日本の市場経済
システムのルールの中へ混入したことが、日本の政治も経済も良い方向へ動きが取
れず時間の経過と共に不況が鮮明になってきたものと判断しています。
これこそが日本経済における「最悪の排除」部分なのであります。

そこでこの特に進化システムに反する重要なポイントが何故進化システムに反する
のかを分析し明らかにして、これを完全な進化システムルールに作り直すことが、
成熟経済へ達した日本経済の再成長と再発展の原点になると考えたのであります。
つまり結論から述べると成熟した経済構造において人間の経済社会の進化発展のた
めの資本増殖力と競争力の強い真の資本主義を実現するためには、ソローモデルや
ローマーモデルで経済成長の根源と指摘している科学技術の進歩のためには、「人
間個人のフェアーな自由と対等な平等を政治的にも経済的にも実現した真の進化シ
ステムルールの民主主義」(大衆主導の機能的国家への変身)と「人間の特性に基づ
く自然な消費の拡大を規制しない真の進化システムルールの市場経済」(消費は必
要以外規制しない)という二つの進化システムが同時に絶対条件として必要不可欠
でありこの体系的融合化が実現すれば成熟経済においても経済は力強く成長し進化
するのであります。

そして同時に「正直で誠実で勤勉な国民性」と「好奇心に富む国民性」を養成する
事が不可欠な条件になるのです。
さすれば時代時代に適応して日本経済社会は自動的に進化発展成長するのです。
ルールの基本をしっかり固めれば何と簡単な事でしょうか。

これは世界各国の経済を詳しく調査した文献や統計書を見て常識を持って判断すれ
ば判明する「事実」であり本書によって「理論的にも実証」出来るのです。
膨大な本書は「この結論を実証するため」に記述された物なのであります。
さて日本における経済問題の話は「あの話しも正しそうであり」「この話も正しそう
である」がどれが正しいのか一向に分からないし、国は経済再生のために「あの対
策を実行したし」「この対策も実行したが」一向に費用対効果が上がらない不況状況
が続いています。そこで経済と言うものの、「基本中の基本」は何であるのかを分析
し浮かび上がらせ最低限度「何をどう変えることが」単発的ではない継続的な日本
経済再生の確実な第一歩になるかを考えたものであります。
そして経済の発展とは社会や文化の発展と表裏一体である事実に基づき、日本は成
熟経済に達したのであるから、経済のみを単体で取り出して議論する経済学の有効
性の少なさを強く感じ、従来の洗脳された考え方から脱却した基本に忠実で且つシ
ステム的で単純で実行可能な「経済発展の基本中の基本(実は上記のようにたった
2点であります。)」を提案することに意を注ぎました。
さて筆者が忌み嫌う言葉に世界のグローバル化というキャッチフレーズがあります。
この横並び意識、世界の社会経済の護送船団方式を表す言葉は使い方によって非常
に害悪を生み出す言葉なのです。 
世界グローバル化の表現が許されるのは「競争条件の同一基準」の意味だけであり、
各国の制度やシステムや法律を同一にすることでは全くないのです。

国際条約や多国間の取り決めで同一にすると決定した事や特に同一にしなければ国
益が大きく損なわれる事は是非同一にする必要がありますが、それ以外は全く同一
にする必要もないし真似る理由もないのです。
それにもかかわらず日本ではこの言葉が重宝に免罪符のようにご都合主義に誤って
使われているのです。
日本の間接税は消費税導入前「自動車の取得及び維持に対する間接税、酒タバコに
対する間接税がアメリカに比べて極端に高率であり、日本にアメリカのような小売
売上税が存在しない時代でも間接税比率はアメリカより高かった」のであります。
但しこの方法は自動車や酒やタバコを買わなければ税を負担しないで済むので、消
費者に選択権のある税制であり経済や消費全般への悪影響は極めて少なく、しかも
酒、タバコについては道徳問題ならびに健康問題に発展する危険性のある物であり、
自動車については環境問題に発展する危険性のあるところから適度の規制があるこ
とは国民的な合意が成り立っていたのであります。
それなのに「税の国際化」とか「グローバル化」とか「直間比率の是正」とか「公
正・中立・簡素」とか意味不明な言葉のコンセプトを羅列して景気に関係なく単純
に強制的に徴収できる消費を全面的に規制する間接税の強化を計ったのです。
それに反してアメリカは競争条件同一基準化以外にクローバル化に世界で最も背を
向けて独自に経済成長を達成しているのがアメリカであります。
多民族、多言語、多文化で地方分権国家という非効率国家の典型であるアメリカが
世界各国と全く違う国際化に背を向けた「党総裁も党委員長も党代表も存在しない
政党の全国組織のない特異な政治システム」を持っているからこそ国会議員への政
党支配が抑制され国会議員の「自由と平等が守られ国民の意識とズレの少ない適正
な判断の基礎が整備され」アメリカは不利な条件を跳ね返し発展しているのであり、
世界各国と全く違うグローバル化や国際化に背を向けた「消費を規制する間接税比
率が極端に低く、逆に消費を規制しない直接税比率の極端に高い税制システム」を
持っているからこそ消費が規制されずアメリカは不利な条件にも関わらず経済発展
しているのであります。

企業の経営指導をするとき、「他企業の真似をして世間一般の大勢に従え」などとい
う無批判な経営指導をする経営コンサルタントや専門家がいれば、その人は失格と
しか言いようがありません。
他企業の良いところ悪いところを「事実を元に」良く研究するとともに自企業の経
営資源を良く吟味し、「同一競争条件の中で」他企業とは大きく異なる他企業を上ま
わる独自の経営戦略を指導するところに経営コンサルタントや専門家の良否が決定
されるのです。
たいした意味もなく自国の国民性も考慮せず他国の制度やシステムを真似るだけで
は失敗が待っているのです。
さて筆者の考え方は経済学において1987年(昭和62年)ノーベル経済学賞を
受賞した経済成長理論のロバート・ソロー博士のソローモデルとそれを改良したロ
ーマーモデルを基本としながら、成熟経済における経済成長を実現するため日本の
経済、政治、社会システムにシステム工学上の進化システムを導入する必要性を強
く提案し同時にこれを実効あるものにするため進化システムの基本概念である「ル
ールの設定と競争」においての人間個人の「自由」と「平等」という日本国憲法は
じめ各国憲法に規定され尊重されるべき人間個人の基本的権利の厳格な遵守が経済
成長や社会の発展に極めて重要であることを再発見し提案するものであります。

つまり全く別々の次元の問題と考えられていた以下の3つの概念を体系的融合化す
ることが成熟経済における経済社会発展の統一的な新理論になると確信したのであ
ります。 
(1)経済成長理論のソローモデル、ローマーモデル
(2)人間を「集団」として扱うシステム工学上の進化システム   
(3)進化システムの前提(要素)となる憲法で定められた「個人としての人間」
の自由と平等の厳格な遵守
経済成長の研究を通じてソローモデルやローマーモデルの経済成長に対する基本的
考え方は「資本」と「労働(人口)」と「アイデアのストックつまり科学技術」の数
量的関係から経済成長の理論を導き出した画期的なものであります。
科学技術教育が何にも増して重要なのは、国民が幸福を追求するための経済成長の
原点になることが明らかになったからであります。
しかしソローモデルにおける分析の欠点は人間社会の本質につながる「消費の本質」
と「消費の自己決定性、自己回帰性、増加拡大性こそが資本の増殖の根本要因であ
り且つ経済成長の需要側増加の根本要因」であることを述べていないことでありま
す。
ソローモデルでは科学技術の発達のみに焦点を当てアイデアつまり科学技術という
経済成長の供給側増加の根本要因のみを重視し、需要側の増加要因を区分区別して
考慮していない点が問題と考えています。

人間の遺伝子に組み込まれた他の動物には全くない極端に発達した「好奇心の本能」
の働きによる科学技術の発達による供給増と「生き残りたい、幸福になりたい、他
人にも喜ばれたい」という極端に発達した利己的行動と利他的行動を伴う人間の利
己的遺伝子の働きによるより良い生活や新しい消費を求める需要増を区分し区別し
て対応推論をしていないことであります。
したがって筆者は全く別の観点である人間の本質や本能やそれをもたらす遺伝子の
働きから経済成長を説明し、「人間の本質や本能に最も適合した経済社会条件は何
であるか」を分析し発見しこれに基づいた分かりやすい経済成長達成の解決策を提
案することに意を注いだものであります。

つまり本書は供給側の増殖要因を経済成長の主原因として見なした経済成長理論で
あるソローモデル、ローマーモデルを「人間集団を進化させる進化システム」と「人
間個人の自由と平等の遵守の意義」つまり「人間の集団としての本質の把握、人間
の個人として本質の把握」を通じて需要側の個人消費の自己回帰的増殖要因も極め
て重要である論点
を新たに明確にし、もって成熟経済でも両要因を等しく規制緩和
すれば経済発展が可能なことを統一理論として分析し提案した本であると理解して
いただければ幸いと考えています。
筆者のつたない知識と数学的素養ではソローモデル、ローマーモデルを完全に理解
することは難しいことですが、その基本つまり「経済成長は人間本来の持つ内生的
成長であるとする定義」と「資本、人口、技術ストックの蓄積の3点から分析して
いる点」が本書の分析と一致しているのであります。
さて10年以上にわたり成熟経済に達した日本の経済成長が殆ど停止し人間の幸福
追求に対して大きな打撃となる深刻な経済不況と失業率が高まる中、何ら有効的な
対策を立てられない現実を見て筆者は日本はおろか世界にも経済成長の本質を説明
し人間の幸福追求のために役立つ「成熟経済における経済成長の基本ルールを明確
に解説した未来にも通用する経済成長理論が存在しないこと」(過去を分析した前
提条件付きの経済成長理論は既に述べたように存在するが)を強く感じたのです。
つまり経済は「神の手に握られているのではなく」「人間による人為的な現象である
以上理論的に説明できるはずである」という強い確信から各国の経済社会を比較し
ながら成熟経済に達した国家の基本的な経済成長理論をまとめ本書を著したわけで
あります。
筆者の理論的根拠は「国内総生産(GDP)=消費+政府購入(税に相当)+設備
投資(貯蓄に相当)+−輸出入差額」という一国経済を表すマクロ経済公式と「所
得=総消費=消費+貯蓄(設備投資として消費市場へ還元)」という人間個人の経済
活動を表すミクロ経済公式から導き出されています。
そして結論は政府購入と設備投資の継続的増加は個人消費の継続的増加無しには達
成が不可能であるという「事実」と、所得は他から稼得する性格上「自らの意志に
よる自己決定も自己回帰的増加も不可能であり」「貯蓄(設備投資)も設備投資も元
金は固定しており自己回帰的増加は不可能である」という原則であります。(株式
市場という経済の特殊な分野さえ消費の継続的増加無しには企業業績は維持できず
株価の維持も出来ないのです。)
しかし唯一人間の行う「個人消費は科学技術の発達に伴う供給力増加との相互作用
を重ね合わせながら人間の意志によって自己決定により自己回帰的に質・量ともに
増殖、進歩、増加、拡大が可能であり、これこそが他の動物と人間との決定的な違
いであり、これこそが文化の発展と経済成長の根源であると確信したのです。」
ここに科学技術の発達に伴う人間一人当たりの供給力の増加と共に、これを消費す
る人間一人当たりの消費の増加というこの供給増加を受け入れる需要の増加が経済
成長に決定的な役割を担っているのであります。

したがってソローモデルやローマーモデルの欠けている視点の一つが科学技術の進
歩のみが国民一人当たりの需要と供給の両者の増加の一体化した唯一の原因と考え
他の重要な原因を考慮していない点であります
これに対して筆者は需要の増加原因を科学技術の発達とは違う次元で捉え、それは
消費(購入)したいという現実の欲求としての人間の行動を伴う意識と考え、科学
技術は製品や商品の供給つまり生産に関係する新製品の開発と労働生産性の向上要
因と把握し、両者はこのように別々の原因により増加するものでありますが、しか
し需要と供給は相互作用によって別々ではあるが自己回帰的に関連し合って「規制
しなければ」両者ともシンクロナイズして増加すると理解している点であります。
「したがって重要なことは消費の増加阻害要因の排除と生産(科学技術の進歩)の
増加阻害要因の排除を別々の政策で達成しなければならないことを明確にした点で
あります。」
したがってもしこの両者の内、片方が人為的原因によって増加率が抑えられるとシ
ンクロナイズが崩れ経済不況が発生するのです。

経済成長の本質は国民一人当たりの需要(消費)の等速度又は等加速度の増加と国
民一人当たりの供給(生産)の等速度又は等加速度の増加がシンクロナイスしてい
る状況を指しているのであり、これらの結果を国民全体で総計すると一国経済の国
内総生産(GDP)の増加を表します。
つまり科学技術の進歩によって国民一人当たりの生産力がいくら増加してもこれを
受け入れる国民一人当たりの消費に規制を加え消費が増加する基盤を規制すると経
済成長は期待できないのです。

この点が唯一資産蓄積を伴う経済類似行為を行う社会的昆虫と言われるミツバチの
大帝国の建設や、蟻の地下大帝国の建設などとは類似点も多いが全く異なる点なの
であります。
人間と類似の社会行動や経済行動を行うミツバチや蟻には「本能で定められた狭い
範囲の好奇心しか存在せず、したがって決められた食料以外その他の消費に欲しい
という欲求も起きず、さらに好奇心に基づく工夫による科学技術を発達させること
が出来なかったことが、人間との武力や経済的な大戦争を避け得た唯一の理由なの
です。」
ミツバチも蟻も一匹当たりの生産量も消費量も世代や年代や歴史が経過しても本能
で決定している一定の質と量以上には殆ど変化せず個体数の増大によってのみ増大
するのに対して、人間一人当たりの生産量と消費量は科学技術の進歩とそれを消費
しようとする本能によって世代や年代や歴史が経過すると共に等速度又は等加速度
的に消費の種類と質と量(量の増加には限界がある)つまり消費の選択肢が莫大に
増大することが他の動物と比較して決定的な相違なのであり、これが人間固有の特
性、本能なのであり文化の発展と経済成長の原理なのであります。

つまり有史以来人間が消費し生産した商品・サービスの種類と質の累積的増大とい
う消費の選択肢の莫大な増大に基づく現時点での現実に消費と生産がなされる商品
・サービスの貨幣換算金額の増大こそが経済成長であると考えているのです。
したがって基本通りにルールを決めれば需要に退歩が無く科学技術にも前進のみが
存在し退歩が無いように、市場主義経済における経済成長にも原則として前進のみ
が存在し、退歩は無いのです。
さて国によって経済成長が違うのは何故でしょうか。
それは今までの説明である程度お分かり頂けたと思いますが次の三点が大きなポイ
ントなのです。
1.その国の国民の消費意欲の強弱(種類・質・量)―― 需要力
2.その国の国民の科学技術の向上度合いと勤労意欲―― 供給力
3.その国の経済段階と規模
そして上記が主な原因となり、各項目がどれくらいシンクロナイズしているかによ
って、その国と他国のその時点での競争的相対関係から利潤を求める資本の移動も
重なり経済成長に各々差が出来るのです。
ここに消費規制は需要力の低下要因になり経済成長への悪影響が存在するのです。

さて従来の経済学は与件(前提条件)の上に成り立つ数量主義の経済学であり、従
来の経済成長理論もその延長線上に組み立てられております。
だからこそ、その根源にある複雑怪奇な社会現象である実態経済と経済成長現象を
与件無しに実質主義で基本説明することの出来ない「現代経済学の限界」を強く感
じているのです。
つまり現代の経済学は数量的な説明を厳密に行おうとするので与件にこだわりすぎ
ているため「経済成長のためには科学技術の進歩以外に何が重要なのか」「成熟経済
における経済成長の最適条件は何であるのか」の徹底した分析が出来ない限界を背
負っているのです。
さてそれに比較してシステム工学における進化システムの概念は非常に参考になり
ます。
進化システムは人間そのものの本能や性質を利用して「競争(協同)を通じた人間
環境に適応する結果」を得るための手段であり、経済成長理論において手段として
の「資本中心の理論」(人間の利己心のみに由来する)を根源的に超えており遙かに
有効な手段であると考えております。
それは進化システム自身「競争(協同)」という基本的な人間の生き残りの本能とさ
らにその内部構造に遺伝概念による突然変異と複製という「増殖拡大構造」をシス
テムの中核概念として確立しているので、人間にとって「資本概念」より更に根源
的なものだからであります。

何となれば資本概念はソローモデルによれば投資に当てられた貯蓄(個人所得−個
人消費=貯蓄)の累積額と考えられており、結局の所資本の根源は「総消費」=(個
人消費+貯蓄(設備投資))=「所得」のサイクルの中からのみ発生するものだから
であります。
この中で時代と共に自己回帰的に増大できるのは個人消費だけだからであり、消費
の増大が所得の増大をもたらし、結局の所資本の増殖作用は個人消費の増殖が個人
所得と企業所得の増大に変換され家計部門の利潤(貯蓄)と企業部門の利潤の増大
をもたらし、それが企業の資本の増殖を支えているのであります。
したがって個人消費の増大無しには、企業の資本の充実は無く、不良債権処理をい
くら国が税金で処理しても、時間の経過に伴って個人消費が増大し続けなければ不
良債権は再度発生し悪循環の無限連鎖に陥るだけなのです。
つまり政策としては個人消費への規制は出来るだけ減らした上(出来れば全廃)不
良債権処理をする以外方法は無いのです。
正に消費に対する規制緩和、規制撤廃であり、何を規制し、何を規制してはいけな
いか、何を促進すべきかの判断こそ国家の機能そのものだからであります。
現状の国家の運営政策は間違っているのです。

そして個人消費の増殖作用は正に進化システムに支えられているからであります。
そして進化システムという人工システムの本質は人間の遺伝子型は変異を伴った表
現型を複製し増殖するがその際科学技術も文化も承継可能であり変異を伴もなうと
ころから遺伝子と同じ作用をもち拡大進化すると考えられたシステムであり、そこ
が非進化システムと大きく異なるところであります。
つまりわかりやすく説明する為に日本国を一つの生物と仮定すると、法律や制度は
遺伝子に相当し、これによって「常に相当の結果が生成され複製される」のであり
ます。
しかし法律や制度に固定的ではなく変異を容認するシステムを組み入れていると突
然変異(新たな考え方による法律、制度)が生じると、「それが新たな結果を生成し
常に複製するようになる」のであります。
そしてフェアーな自由と対等な平等条件の中でそのうちのどちらが現代の日本国の
内部環境、外部環境へ適応するかの「結果による競争」によって、より適応し良い
結果を出すどちらかの法律、制度が生き残り適応し法律や制度は進化するのであり
ます。
つまり法律や制度や科学技術広くは文化などもフェアーな自由と対等な平等条件の
元で変異を受け入れ競争によって結果を決めるシステムになっていれば、全て生物
の遺伝子のように進化する人工進化システムになりうるのであります。

さて進化システムを定義しますと
1.進化システムは目的(特定の理念や観念など)を持たず、進化の「過程つまり
ルール」だけを持つ。
したがって人により作られたシステムにもかかわらず、ルールは特定の個人やエリ
ートと言えども直接制御出来ないし、してはいけない構造を持つ。
(つまりスポーツやゲームのルールと同じ)
2.進化は変異が起こり、変異が競争に参入し「結果」として進化が起こる。
(つまり「結果が真に良ければ」すべて良しなのです。)
(また変異とは積極的に試行錯誤を行って改善し環境に適応するかどうかを確かめ
るという哲学的意味が含まれています。)
3.外部環境、内部状態の変化に対してシステム全体として柔軟に適応し頑健であ
る。
4.システムの一部が競争による淘汰圧力からはずれたときその部分は爆発的に増
殖する。(バブルがこれに該当する。)
5.分化と系統が発生する。(したがって豊かな多様性がある人間の存在を容認する
発展的なシステムである)
つまり進化システムとは人間環境に対して良く適応する結果を競争(協同)という
概念を用いたシステムの中で次々と発見する手続きのルールを定めたものとして考
えられたものであり、一つが自由競争組織に適用される外部競争方式であり、もう
一つが独占組織に適用される内部競争方式
(国の構成員である国民の意志決定のた
めの憲法で定められた正しいルール)なのであります。
そして人工システムは「進化システムであるときに限ってシステムとして強力に発
展する」特徴を有しているのであります。
したがって進化システムは時間が掛かっても必ず非進化システムに勝利してゆくの
です。
さて進化システムにおけるキィーワードは「競争」であります。
しかしながら競争と正反対の概念の「協同」と言う概念を、どのように理解するか
が重要なポイントなのであります。 「協同」という概念は「競争」という概念の
正反対であるゆえに広義において進化システムにおける競争概念の一部と判断して
います。

したがって通説の経済成長理論と異なり、筆者の経済成長理論は進化システムの本
質にひそむ人間の文化と経済は、誰にも制御コントロール出来ない人間の自由(フ
ェアーな)と平等(対等な)が保証された環境の中で、規制を加えなければ無常(常
無し)であり不可逆的であり退歩はなく進歩のみが存在し、需要の増加エンジンは
現在より一層幸福になりたいとする人間の本能と新しい物を欲しがる好奇心という
本能(DNAの分析から他の動物にない人類の特徴)が等速度又は等加速度的に国
民一人当たりの「消費価値の無限の増加」をもたらし、供給の増加エンジンは科学
技術という進化システムによって等速度又は等加速度的に国民一人当たりの「生産
価値の無限の増加」をもたらすのであります。
ここで消費価値とか生産価値と述べたのは現在では宇宙飛行士が行っている一人当
たり車2000台分以上の消費価値と生産価値つまり一人25億円の宇宙旅行が、
未来では車一台分の消費価値と生産価値の一人100万円位で全ての国民へ可能な
経済になるという意味なのです。(つまり経済の過剰性の拡大とは無限の消費の選
択肢つまり質や種類の増大や新製品の増加を意味し且つ限界のある消費量の増加を
意味しているわけではないことを理解して頂きたい。

そこで人間社会の全分野に渡り「自由とは参加する自由を意味し参加を規制する自
由は全くないという条件付きの自由」が必要なのであります。
そして平等(対等)に「競争によって公正に優劣をつける」という進化システムの
本質を形作る概念なのです。
そしてこのことは経済成長理論におけるソローモデルの「アイデアのストックの増
大こそが科学技術の進歩と経済成長の源泉」と考える考え方と一致するのでありま
す。
つまり膨大な数の人間一人一人全てに自由に平等に意見の表明させる参加の自由を
与え公正な優劣を競争で競わせるシステムを作ることこそ「アイデアのストックの
増大に圧倒的な寄与するからであります。」
経済的に見ればこの定義による「自由こそ」根本的な「経済成長の基本促進要因」
なのであり、「平等(対等な)こそ」が競争によって勝ち負けを決める場合の正しい
判断の決定要因つまり「経済成長の方向性の基本決定要因」となるのであります。
そしてまた「自己回帰による増殖拡大性や自己決定性を持つ消費こそ自由主義的市
場経済への人間個人の参加意志の表明であり、これを無意味に規制することは進化
の否定につながるのです。」
それに対して所得は他から稼得するものであり、自己回帰による増殖拡大性も自己
決定性も無いところから、所得に対する規制は進化の規制には該当しないのであり
ます。
つまり経済の出発点である消費市場において人間に完全に参加の自由を認め消費に
規制を行わないということは、自己決定性や自己回帰性、自己増殖性を持つ消費の
自然の増加を促し経済成長に極めて役に立つのであり、逆に所得を人間に自由を認
めない累進率の高い税率で強制的に規制することは、その労働者に高い賃金を受け
取るのをためらわせる効果と同時に国家への財政収入効果があり、自由な消費市場
で拡大した消費から発生する「所得」が貯蓄率の異常に高い高額所得者のみに還元
されず国家を通じ広く消費性向の高い低所得の国民に還元される動機となり消費を
起点とした新たな総消費−>所得という所得増加の無限増加サイクルとなって経済
成長と莫大な富の生成へ役立つのであります。

結局の所、「参加の自由を徹底して尊重する大部分の分野」と「参加を規制する特別
の分野」と「参加の自由を妨害する行為を規制する分野」を明確に区分し区別して
対応することが、進化システムルールを作り上げる上で重要なポイントとなります。
つまり経済成長の根源は「生き残り本能」の他に人間は他の動物にはない特殊な本
能である「現在より自己も他人も幸福にしたいと意識し行動する本能」「強い好奇心
の本能」に支えられ、その時代時代に適応した「消費」と常に新たに発見開発され
る「科学技術」との相互作用に支えられているのであります。
そして経済成長の解釈は人間の本能とそれから派生した「消費活動」と「科学技術
に基づく生産活動」の「各国の個別条件下における」一人当たりのシンクロナイズ
しながらの時系列的な等速度、または等加速度の増加、拡大状況を指すものであり
ます。
ここで重要なことは日本の個別条件下での最適条件へ変革する努力なのであります。
ここで経済成長を求めるための最大のポイントは消費に一般規制を加えず自由(フ
ェアーな)にさせると自然に増加するという原則を遵守する重要性と、生産の本質
である科学技術の進歩にも一般規制を加えず自由(フェアーな)にさせるという原
則を貫くことなのです。
そして規制を加えて良いのは、その規制によって「国民の幸福を追求する権利に役
立つ時のみ」であります。

この原則を片方でも守らないと「生産と消費の整合性」が崩れ、無限の不況が到来
し憲法で保障した「人間の幸福を追求する権利」の実現は難しくなるのです。
そして規制を加えなければ生産と消費は互いに別々な原因と相互作用を発揮し合っ
て両者とも自然に増加すると解釈する(歴史と事実が証明している)のが筆者の経
済成長理論イメージであります。
消費や生産に規制を加えて良い場合は「人間にとってその規制が真に役立つ時にの
み限定する」個別規制のみに止めるべきであり、必要な規制は徹底的に行うべきな
のです。(人間にとってその規制が真に役立つと既に厳密に検証済みの進化システ
ムで言う最悪の排除と特定されたからであります。)
そして促進は「人間にとってその促進が真に役立つと考えられるときのみに限定す
る」個別促進に止めるべきであり、そして必要な促進は緩やかな促進に止めるべき
と考えています。(その促進が人間の進化にとって真に正しい方向かは未確定だか
らであります。)

それ以外の大部分の分野は自由にさせることが豊かな多様性のある系統と分化が発
達した経済を実現し国民の幸福と経済成長を招来するのであります。

つぎに最も重要なことは国民環境へ適応した「規制」と「促進」は何についてどの
程度行うべきかの正しい判断はどのように行うべきかのルールであります。
つまり国家機能の本質は「人間に対してあれをするな、これをするな、あれをしろ、
これをしろ!!」という「規制機能と促進機能を使い分ける政策を」法律で強制す
ることが、その本質なのである以上、国民環境に適応した正しい決定を行うには正
しいルールで行う必要があるのです。
そして国家からの「規制の明確なメッセージ」は、金銭や資産の強制徴収や、肉体
精神の実質的拘束や不平等取り扱いという形で表現され、「促進の明確なメッセー
ジ」は商品、サービスの無償または低額提供または金銭や資産の補助という形で表
現されるのです。
そして「国の費用の負担者」と「国の政策の受益者」という二律背反の二重人格性
を有し且つ規制と促進の対象となる人間個人が集まった人間集団(国民)が「政策
の環境」に相当するわけでありますので、この環境に最も効率良く「適応する」政
策の選択は「環境自身に決めさせる」のが最も的確に効率的で正しい選択が出来る
のです。
そしてその人間環境である個人個人が心からの真の選択意見を表明するためには
「自由(フェアーな)」と「平等(対等な)」の精神が人間個人個人に保証されなけ
れば真に実現は出来ないのです。
これが現実の社会に常に身を置く国民の意見や感性を集約する原点となり、国民環
境に適応した政策決定の原点になるのです。
そして国民による「自由と平等が保証された条件」における国会議員選挙と国会議
員による「自由と平等が保証された条件」における国会採決という二段階による国
民への「規制」と「促進」政策の決定方法こそ国民へこれを強制する法的効力の源
泉になり、真の国民環境へ適応した決定が可能となる原点になるのです。
これが日本国憲法が規定し予定していた進化システムルールなのです。
そして「適応に対する継続的な微分的積分的接近方法」「つまり分かりやすく言うと
試行錯誤で改善を繰り返し適応状態へ近づく努力こそ」真に国民環境へ適応した政
策が完成するのです。
 

さて親子二代に渡り自由民主党のファンであり、その理由はアメリカの欠点も多い
が人間個人の自由と平等の本質を一番理解し進化発展しているアメリカの国家哲学
に一番近しい立党の精神つまり政党や派閥の組織優先でなく政治家個人優先の精神
を持った政党であったからであります。
つまり人間社会の進化システムを維持するには「参加する自由を最大限度尊重し、
参加を妨害する自由は徹底して規制する哲学」を持つことが最も重要であり、その
基本は人間個人の「自由(フェアーな)」と「平等(対等な)」な精神における競争
意識と協同意識の国家的確立が必要なのです。
ところが吉田茂元首相から始まりGHQのアメリカ的精神に触れ優れた幾多の政治
家を生みだし田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳元首相(いわゆる三角大福)
で終了した戦後第一世代の政治家が持っていた個人を優先する自由と平等の精神の
重要さがそれ以後の政治家に引き継がれず、他の野党と同じく政党組織優先の思想
が近年極めて現出しつつあることに強い危機感を抱いております。
戦後第一世代の優れた業績を残した個性豊かな政治家がしっかりと後輩を育成する
ためのプログラムやルールを残さなかったことが残念でなりません。
したがってまず自由民主党を始め与野党の政治家は初心に返り、国家の運営は通説
と異なり外部競争原理が働く民間企業組織と全く異なる進化原理・組織原理で経営
しなければ進化システムは働かず進化しないことを知らなければなりません。
国という独占組織に適用される進化システムでは内部競争原理を忠実に規定した日
本国憲法の国会議員個人優先の国会規定(政党や派閥の必要性や政党の権利などは
憲法では全く規定していない。したがって政党や派閥は個人を優先する緩い絆の政
党や派閥しか存在すべきではないのです。)の趣旨に厳格に則り「人間個人としての
国会議員の良心と自由(フェアーな)と平等(対等な)の精神による国会議員個人
の競争原理の働く国会運営」なくしては国家の進化は無く「競争がルールに則って
行われ、目的のために手段を選ぶ精神に立ち戻ることこそ」(極論すれば最高裁判所
の判決やスポーツや囲碁将棋のルールと同じく)国の進化システムが順調に動作す
る全ての出発点になることを再確認することが日本経済の進化の再出発になるから
であります。
現状のように目的の為に手段を選ばない政党や派閥の行動は、「国会議員個人の自
由(フェアーな)と平等(対等な)の精神」を妨害し抑制し国会議員の個人の能力
を発揮させず進化システムが働かず、国の進化を抑制するのです。

このためには与野党を問わず国会議員個人に対する政党や派閥組織とそれを運営す
る少数のエリートの影響力を大幅に減少させ国会議員の個人の良心と自由(フェア
ーな)と平等(対等な)を保障する措置をとることによって、日本国民のリーダー
としての国会議員個人の能力を最大限度発揮させる基盤をつくることが国家の進化
の源泉になるのです。
この意義を確認するためには日本のあらゆる分野の内、この人間個人としての「自
由(フェアーな)と平等(対等な)の競争の保証」が実質的に遵守されている分野
を調査すれば、その分野は世界的に見てもたくましく進化・発展していることが発
見でき十分理解していただける思います。
英才教育ではない大衆に根付いている分野で下から努力と競争によって勝ち上って
活躍する民間企業経営者、科学技術者、野球選手、サッカー選手など「人間個人の
フェアーな自由と対等な平等が遵守され、競争で優劣を決めてきた国内分野」では
世界に通用する優れた人材が日本でも次々と生まれ育ち世界的な舞台で活躍してい
るのであります。
それでは日本の政治家が何ゆえ世界に通用する人材を輩出できず「三流」などと侮
られるのであろうか、それは「日本では国会議員に人間個人としてのフェアーな自
由と対等な平等が認められておらず内部競争原理も遵守されていないため」なので
す。
したがって国会議員にもこの原則がしっかりと遵守され適用されれば、なれ合いや
談合と無縁な切磋琢磨した真に能力のある国会議員、真に良い国民環境に適応した
政策を実現できる国会議員が生き残り競争原理が働き進化システムが機能してくる
のです。
そして我々国民は一人一人の国会議員の個人個人の行動を子細にチェックして、無
能な国会議員を「淘汰」するために当否を明確に「選挙」で表せば良いのです。
そしてこのような進化システムが作動するようになると、日本からも世界に通用す
る優れた政策を有する政治家を輩出できるようになるのです。

現在のように誰を選んでも代わり映えがせず、単に実態がない憲法にも規定されて
いない国会における採決権もない政党や派閥を実質的に選ぶ選挙では感動も興奮も
意義も無いのです。
つまり政党や派閥に国政を委ねては進化システムは作動しないのです。
国政は日本国憲法で定めたルールに則り国会議員個人個人の良心と自由(フェアー
な)と平等(対等な)精神で粛々と採決する(これが環境に適応した政策を選ぶ内
部競争)ことによってのみ日本国の進化システムは作動するのです。
そしてこれによって継続的に「淘汰つまり最悪の排除」が繰り返し行われ、適応に
対する微分的積分的接近が繰り返し行われ国民環境へ適応した政策として完成いく
のです。
ところが与野党を問わず政党や派閥の力学が働くと「事実を度外視した理念や観念
が優先され誇大宣伝され淘汰つまり最悪の排除が出来なくなるために進化が働かな
くなるのです。」
 
そこで国会議員は常に政党や派閥や政党エリートの決定を優先するのではなく、国
民と有権者の真の利益を優先し目を向け耳を傾けて政治を行う真のルールを確立す
ることが日本国の進化システムの作動条件となるのです。
国民は国の運営費用の負担者であると同時に、受益者という二重人格性と自己回帰
性を持つ以上、国政の「環境」に当たるのであり、「国民の人為淘汰による最悪の排
除」こそが進化の源泉になる進化システムが作動する原理にあたることを絶対に忘
れてはならないのです。
そして人間社会の進化発展においては経済の進化発展と社会の進化発展は表裏一体
の関係であると認識しております。
そして経済社会の進化発展要因は科学技術という進化システムと消費という進化シ
ステムと人間そのものが進化しながら環境へ適応しようとする本能に由来している
と考えており、その自然な本能を抑圧せず素直に発揮させる環境つまり市場経済(真
の)と民主主義(真の)という進化システムの中で各々の国民が相互作用を持ちな
がら自由に競争(協同)して望まれる国民環境へ適応しようとする努力こそが経済
社会の発展と経済成長の源泉になると考えています。

この根本命題は人間社会においては、自由主義市場経済は進化システムであるから
こそ、エリートが考え出した非進化システムの計画経済に時間が掛かっても自動的
に勝利するのであり、民主主義は衆愚政治といわれながら進化システムであるから
こそ、規律正しい観念を持ったエリートが率いる真の全体主義、真の共産主義とい
う非進化システムに時間が掛かっても自動的に勝利するのであり、科学技術や科学
的な論理は進化システムであるからこそ、一部のエリートによる非科学的で不正直
な論理や優れた呪術師や予言者の迷信という非進化システムに時間が掛かっても自
動的に勝利するのであり、インターネットは進化システムであるからこそ、優秀な
エリート管理者の存在する一般の商用ネットワークという非進化システムに時間が
掛かっても自動的に勝利し、力強く進化発展するのであります。
このシステム工学上の「システム(制度、法律、基準などのルール)というものは
進化システムの時に限って結果として力強く進化する」という進化システムの原理
や概念を徹底的に突き詰めて研究し、日本経済の「非進化システムの重要部分を発
見し基本的に進化システムに作り変える変革の研究(基本的には難しい事ではない)
を行いたいというのが私の提案であります。」
進化論では「生存競争・弱肉強食」というイメージだけが先行し、その言葉のイメ
ージからすると「結果としての大自然は強者が弱者を全て食い殺し強者のみが生き
残る殺伐とした貧しい自然をイメージしますが、現実は全く逆に大自然は進化シス
テムによってのみ、すばらしく豊かで多様性に富み、無数の弱者を含んだ過剰性に
富んだ自然世界(分化と系統が発達した)を結果として現出するのです。」
この結果こそが進化システムの本質なのであります。
結果として競争概念には協同概念も含まれていることを忘れてはいけません。

本書では競争(協同)と常に付記して表現するつもりであります。
一例を挙げればトヨタ自動車は他社と競争しているのであるが別の視点で見れば従
業員が協同して他社と競争しているわけであり、自動車各社は激烈な競争をしてい
るが、日本国を協同して担っているとも見えるのであります。
そして進化論における「淘汰」とは環境に対する最善の選択ではなく、最悪の排除
を通じて、「適応」への微分、積分的な継続的接近の手法とイメージすれば理解しや
すいと思われます。
つまり淘汰とは最悪の排除のみであり、大多数の普通は「分化と系統」に分かれて
生き残り環境に適用し多様性を育んでいくのです。
そしてあらゆる人間つまり経済的強者弱者、肉体的強者弱者、精神的強者弱者の全
てが人間社会で生きていける環境を国家が提供するためには、「進化システムによ
って豊かで過剰性のある分化と系統に分かれた多様性のある人間社会を提供しなけ
れば全ての人間に職を与え生活を維持させることは不可能なのです。」

つまり金融不安も不良債権処理問題も、株価の過度の下落も、土地価格の低下も単
に「当時」国民の7−80%が反対した経済の出発点である個人消費を規制する消
費税の導入を強行したり国の政策に国民環境に適応しない誤りが多かったこと、更
に改善されないシステムが存在することによって結果として時間の経過と共に経済
の過剰性を大幅に縮小させた結果すぎず、これが止まらないのは経済の全ての出発
点である個人消費規制が日本の特殊な慣習下(女性が家計を支配している)で特に
副作用として強く出た結果に他ならないのです。
経済不況の根本的な原因は国家が具備すべき進化システムにおいて人間環境に適応
した正しい国家政策を選択淘汰するための進化エンジンである国会における国家意
志の決定方法が日本国憲法で定められた国会議員個人の良心と良識と自由(フェア
ーな)と平等(対等な)精神に基づく厳格な内部競争条件ルール(選挙における国
民の意志に対する全ての影響力排除の公職選挙法の厳しい適用に見られるような)
によって行っておらず日本の与野党の政党や派閥エリートが国会議員個人の意志決
定を管理制御しようとしているために進化システムが機能せず誤った理念によって
自己洗脳を続けながら長年消費規制を維持してきた結果に他ならずこれが不況の根
本的な原因なのであります。

つまり第一に国会における採決方法を進化システムに改めなければならないことと
第二には経済の出発点である「消費」には一般規制を加えてはならない原則の実現
を目指して現在の最悪な部分を淘汰することが、日本経済再成長の本質であり原点
になるのです。
この「日本の経済の進化システムにおけるこの二つの最悪の排除無しにはどのよう
な手法を取ろうと底なし沼の不況からなかなかはい上がれず根本的な問題解決は不
可能なのです。」
進化システムのその原理上、特定の人間や人間集団がそのシステムを管理したり、
制御したりコントロールし始めると、その瞬間からそのシステムは進化システムで
はなくなるのです。

真の科学技術も、真の市場経済も、真の民主主義も、インターネットも「ルールの
みが存在し、競争(協同)原理以外エリートの管理も制御も作動しないからこそ進
化システムなのです。」
誰かがこのシステムを制御、コントロールしようとした瞬間から進化システムはそ
の効力が弱まり最後には作動しなくなるのです。
結局国会議員個人の良心と自由(フェアーな)と平等(対等な)精神を与野党を問
わず日本国憲法で全く規定されていない政党や派閥という組織がこれを抑圧したり、
ねじ曲げたり影響力を行使したりしているために進化システムが作動しなくなり政
策決定に誤りが多く、人間環境に適応しない最悪な政策が過去淘汰されなかったこ
とが経済不況の第一の原因に上げられるのです。
つまり政党エリートが政策決定ルールを自らの管理下で制御しようとするために日
本では税の負担者の立場と政策の受益者である立場の二面性を同時に持つ人間(国
民)環境に適応した政策が内部競争(国の構成員である国民の意志決定のための憲
法で定められた正しいルール)によって淘汰されず最悪の政策がいくつも維持され
ている事実が積み重なり現在の不況が継続しているのです。
次に第二の不況原因として進化システムである市場経済システムにおける経済成長
の需要側の出発点(供給側の出発点は進化システムである科学技術)である需要の
進化エンジンである自己回帰的な増加が可能な自由であるべき消費に日本の特殊性
も考えず全面的に規制を設け抑圧するルールを定着させ貧しい非進化システムに作
り変えてしまった事であります。
基本的には経済の良循環を維持する進化システムにとって最悪なこの二点を進化シ
ステムに変更すれば消費を所得に変換して生活している経済は時間が掛かっても全
ては自動的に改善されるのです。
そして進化システムでは「進化スピードと進化の方向性」が最重要課題になるので
す。
筆者は単純でありますが、誤りのない進化システムのルールの壮大な提案こそが、
人間社会の全ての解決策の根本原則になると考えているのです。
成熟経済に到達している日本では尚更なのです。

さて進化システムにおいて外部競争が適用される独占が存在しない分野、例えば民
間企業の分野ではその組織が独裁的運営で活動しようが、民主的運営で活動しよう
が、法律に違反しない限り全くどちらの運営方法でも全く構わないのです。
それはどちらの組織の生産物や組織を選ぶかは競争の中で環境であるお客や労働者
である人間が自由に行うのであり、つまり外部競争条件が働き人為淘汰によってど
ちらがより良い適応が出来るかで結果として環境である国民の淘汰による選択によ
って決定するからであります。
ところが国や地方公共団体のように、人間環境である国民がサービスや組織を選べ
ない独占組織の場合には外部競争が働かないため、「進化システムの内部競争ルー
ルを厳格に守ること」によって環境である国民に適応する政策を環境である国民自
身が人為淘汰によって選択し運営しなければ、これらの独占組織の微分的積分的な
人間環境への適応の継続的接近という動態的な進化は果たされないのです。
国民は組織の運営費(税)の支払い者であると同時に、受益者であるという二重人
格的な自己回帰的な関係にあるからこそ国民自身の意志の総和こそ進化の源泉なの
です。

そしてこの独占組織である国や地方公共団体の内部競争条件を確立し進化システム
を維持するためには日本国憲法をはじめ、諸外国の最高法規である憲法でも明らか
なように、あらゆる場面において人間としての個人(組織ではない)の良心と自由
(フェアーな)と平等(対等な)の精神の国家的確立こそが基本になるのです。
憲法には人間個人の権利義務が事細かく規定され、組織(政党や派閥や会社などの
任意組織)の権利義務については何らの規定がないことが、このことを象徴してい
ます。
自由とは「参加する個人意志の自由を守り促進することを言い(これが進化の源泉)、
法律によらないで参加を規制したり禁止したりする個人意志の抑圧の自由は全く認
めない(これも進化の源泉)とする自由」を指しており、平等とは「どの国民に対
しても、その国民本人一人の意志と本人一人のみの要素で平等(対等)に取り扱う
原則(進化の平等性)」こそが人間一人一人の自己回帰原則、自己責任原則を全うす
る進化システムの基本になるのだという根本ルールを認識しなければなりません。
そして消費とは人間の行う自由な意志の明らかな表現の一つであり
、そして経済社
会の進化における淘汰行動(良い物は消費し悪い物は消費しない)そのものであり
且つ文化の源泉であり、これを規制すると経済社会の進化スピードは著しく低下す
るか後退するのです。
消費税は正にこの点に問題があるのです。逆に直接税は後述するように消費を抑制
する悪影響は全く無く、消費を所得に変換して生活している我々人間にとって安心
できる税制なのです。
そして人道上の配慮を拡大解釈したり財政上の理由を連発してこの「自由と平等の
原則をねじ曲げてはならない」のであり、それが許されるのは国民の真の幸福に役
立つときにのみに限定すべきであります。
人道上の配慮とはその一人の国民が切迫した生命の危険にさらされたときのみに絶
対に行わなければならない配慮のことであり、拡大解釈してはならないのでありま
す。
この自由(フェアーな)と平等(対等な)の概念をすべての場面で確立することこ
そ、全ての国民一人一人に競争(協同)条件が同一に保たれ、人間自身にとって良
い生き方が生き残るという経済社会の進化システムが正常に作動し経済社会の進化
発展スピードが人間の自然な本能通りに維持されるのであります。
特に今後大問題になります福祉制度にこの原理原則を導入しなければ日本の家族維
持は困難になってきます。

そしてこのことが「成熟経済下においても消費を規制しなければ科学技術の進歩と
人間の本能によって経済の過剰性(本人以外の第三者へ所得を稼得させるという利
他的結果をもたらす。以下次項から省略)が拡大し、そこに消費性向の高い低所得
者層への税制による所得誘導分配システムを導入しながら消費の増加を自然に任せ
規制しないことで結果として適度な経済成長が維持され」「失業率の低下とその反
対目標であるインフレ率の同時低下という不可能への挑戦が可能になる」のであり、
国家として自動的に国内市場を豊かに開拓し国民に職を与え国民に対して社会に貢
献して貰う環境を提供できると同時に国民が国政へもっと参加して貰う道を提供で
きるのであります。
日本の政治家もマスコミも「国家内の政治家の政争」を会社間の弱肉強食、戦国武
将の天下取り競争とイメージしているようであるが、これは全くの間違いでありま
す。
負ければ会社は倒産もありますし、戦国武将は殺され滅亡もあるのです。
つまり会社や戦国武将には独占が存在せず常に本当に命が取られる危険にさらされ
ながら他の会社、他の戦国武将と外部競争条件の環境の中で競争し進化するのです。
しかし国家は独占であり、また政治家個人も死んだり滅亡するわけでは無く外部競
争条件は働かないのです。
そこで国家の進化条件は厳格な内部競争条件を遵守しないと進化システムが作動し
ない仕組みになっているのです。
この区別を特に国会議員自身やマスコミの人々は十分理解しなければなりません。

さて内部競争条件を正しく作動させるには「数の論理による意志決定」は民主主義
という進化システムにおいて不可欠の要素でありこの考え方は全く正しいのです。
但しその際重要なことは「政策の環境(対象)にあたる国民一人一人の良心と自由
な意志による淘汰が反映できる条件整備が為されていなければ進化は起こらないの
です。」
つまり国家の構成員であり環境(対象)である税の負担者と受益者の二律背反の立
場を有する国民自身に情報公開の中で細部まで十分検討させ自ら望ましい政策を選
ばせたり、政策を淘汰させ試行錯誤を続けながら微分積分的に適応への継続的な接
近方法をとることが最も効率よく環境に適応した政策の選択が行われ最悪の淘汰・
排除作用が働き進化が促進されるからであります。(内部競争方式)

日本国憲法で明らかなように国権の最高機関は国会であり「世界で一番自由で公正
で厳しい公職選挙法が整備されている日本において、これに基づく国民の選挙によ
って国会議員が選出され」「さらに日本の国家意志はこの選出された国会議員が有
権者や国民以外に誰からも束縛されず、誰からも影響されない状況下で本人の良心
と自由(フェアーな)と平等(対等な)の精神に基づき政策の善悪・適不適の判断
を最終的に決定する国会における国会議員の採決活動」の二段階のやり方こそ日本
国憲法で法定化された国家意志の唯一の正しい決定の方法であり、これこそが進化
システムなのであります。
つまりこれが「政策の善悪・適不適を選択・淘汰するための正に国の進化システム
における内部競争方式」なのであり日本国の経済・社会が進化・発展するための根
本原則であることを認識頂きたいと思っています。
ところが現状の日本では与野党を問わず憲法にも、主要な法規にも全く規定されて
いない「政党や派閥による国家支配」が厳然として存在し、せっかく国民の良心と
自由な意志によって選ばれた「国会議員の個人の良心と自由な意志が政党や派閥に
よって拘束され発揮され影響下にあることが、日本および日本経済が進化しない根
本的な理由なのです。」
これに対してアメリカには全国組織の政党は存在しないという世界的に見ても特異
な政治システムを取っており共和党にも民主党にも党総裁も党代表も党委員長も存
在せず政党エリートも存在しないのです。
つまりアメリカには全国組織の政党支配は存在せず、国会議員は個人の良心と自由
な意志に基づく判断で行動できる緩い絆の政党組織の仕組みが出来上がっているの
です。
そしてアメリカの内閣は大統領の助言機関にすぎず閣僚はいつでも大統領が辞めさ
せる権限を持ち、閣僚の意見を聞くかどうかは全く大統領個人の自由なのでありま
す。
したがってアメリカでは内閣は国会に対して、連帯責任を負うことは全くないので
す。
つまりアメリカでは国会は国会議員個人がその良心と自由な意志の元に全責任を持
ち、政府は大統領個人がその良心と自由な意志の元に全責任を持っており、政党と
言う組織が責任を持ったり、個人より優位に立つなどという組織体制は全く取って
いないのであります。
これこそが多民族、多言語、多文化で地方分権国家という典型的な非効率国家のア
メリカがこれらのハンディキャップを乗り越え、現在は独立後わずか224年(江
戸幕府の存続期間より短い)という歴史的に見れば、つい最近出来上がった国家が
瞬く間に世界一の超大国に進化し得た原因なのです。
つまり内閣でさえ大統領個人の良心と自由な意志による判断に全権がはっきりと委
ねられているのです。
つまりアメリカのルールは人間の個人責任を明確に分かりやすくそして厳格に定め
られているのであります。
日本のルールのように個人と組織の責任が混じり合い、環境である国民に実質的決
定ルールが存在せず特定のエリート集団や権力者が実質的な決定権を握り形式的な
建前の責任者との間で責任の所在が不明確で曖昧で不平等で不自由なルールになっ
ており自由(フェアーな)と平等(対等な)の概念が確立しておらず、進化システ
ムが働かないのはシステム工学上当然のことなのです。

さてそこで日本の国会議員について「アメリカと同じ程度に個人を尊重し、自由(フ
ェアーな)と平等(対等な)の厳格な定義による採決ルールに基づく国会議員個人
の採決活動という国家運営への進化システムの導入」(この考え方を導入すると進
化システムが作動し始め日本の国民性に合致したアメリカと異なる日本国民に適応
した国家に分化し発展進化していくのであります。)という「第一法則」が確立する
のであります。
次に「人間は消費を所得に変換して生活している」のであるという経済学的な厳然
たる事実
をもとに市場経済システムという人工の進化システムの中で「消費」は自
由な国民意志の表現(どの産業を発展させ、どの産業を淘汰するのか)の一つであ
り、商品やサービスの淘汰と選択そのものであり、経済と文化の進化の源泉であり
人間の幸福になりたいという強い欲求から自然に任せれば自然に増加拡大する性格
を持つているのであります。(所得は自ら行う消費と異なり他から稼得するもので
あり、それ自身では自己決定的な増加要素を持っていない。)
したがって「時代の移り変わりと共に自然増加が可能な消費に課税という規制を加
えて自己回帰的な消費自身の増加を抑制しては絶対にならず逆に消費は自然な増加
に任せ」「規制を加えるなら消費の自己回帰的な増加とは無関係の所得の規制を強
化して資本主義の原則から強者に集まりがちな所得に対して消費性向の高い低所得
者層へ所得誘導分配を促す税制システムの確立が必要である」
とする「第二法則」
こそが日本国の経済成長を再度開始する原点になると本書でその理由を詳しく述べ
るとともに実施方法を提案するものであります。
さてアメリカの政治経済制度を「人工進化システム」の観点から考察する考え方は
アメリカでさえ一般化されているとは感じられず、アメリカ人自身それにどっぷり
浸かって、その長所も理論的根拠も気がついていないようであります。(自分の手札
を絶対に見せないポーカーゲームの国のアメリカであるので、いつものように気が
付かない振りをして他国に自国の長所を隠しているだけかもしれません。)
アメリカは独立国家のような州の連合体でありながら全体を一国として維持しよう
というヨーロッパからの独立という強い意志で作り上げられた国の成り立ちから進
化システムに良く適合した個人の自由(フェアーな)と平等(対等な)を厳格に守
る政治経済システムが「偶然に出来上り」多民族、多言語、多文化の多くの非効率
さを抱えながらそれが進化システムの要素を必要且つ十分に保有していたために

率的であるはずの中央主権国家群を抜き去り世界に類を見ないシステム的に発展し
た社会になったのだと筆者は理解しております。
しかしアメリカの問題点としては、大統領個人と国会議員個人の選出方法について
余りにも選挙区が広大すぎるため、選挙費用が極端にかかり「献金者の影響力の大
きさこそがアメリカの経済民主主義最大の脅威なのです」。

アメリカとて個別企業との結びつきが強い場合は「汚職問題が発生することは日本
と同じであるが」、アメリカ政治における特に経済界、労働界の影響力が強いのはこ
のためなのです。
このためアメリカの社会経済の進化の方向性は経済界、労働界の影響を強く受けす
ぎており、このために国民の真の望む方向性と進化の方向性がブレる危険性を常に
内包しているのです。
しかし根本的には最も問題の大きい政党からの国会議員個人や大統領個人に対する
影響力は日本より遙かに小さく、進化システムは真に正常とは言えないにしても概
ね正常に作動しており「したがって献金者つまり経済界、労働界の影響が強すぎる
ことと、目に見えない予定調和に対する理解が低く且つ目に見える現実を重視する
アメリカの国民性が重なって進化の方向性を少し誤りアメリカの独善と考えられる
政策も少々目に付きますが、ルールの基本がしっかりしているところから、アメリ
カ国民は目に見える現実として切迫した危機と感じた場合(アメリカはそこまで達
しないと動かないのが長所であり欠点)はルールに則り厳格にしっかりと方向転換
し行動する国民であることが世界の信頼を得ているのです。」
つまり選挙制度の影響から経済界、労働界の影響力が強すぎるなどアメリカとて万
全ではないが、微分的積分的に人間環境へ「適応」する継続的接近手法を厳格なル
ールとして持っていることが根本的に大きな間違いを防いでくれているのです。

ところがおもしろいことに伝統的に経済界の「株と資本と高額所得層を重視する共
和党政権」と「人間の平等と福祉政策と中低所得者層を重視する民主党政権」につ
いてアメリカの株価を比較すると共和党政権時代と民主党政権時代とでは民主党政
権時代の方が若干株高であったという統計も発表されているのであります。
株高にしようしようと追い求めると結局株高にならず、世の中の矛盾点を一つ一つ
解決することが結局株高になるのだという「パラドックス(逆説)」を表しているの
です。
同じように税金とて「取ろう取ろうと安易な税制で消費規制を厳しく強化すると経
済環境は悪化して税収はとれなくなり」「経済環境を悪化させない基本に忠実な税
制システムを作り上げ豊かな経済環境を提供すれば税収は自然に無理せず黙ってい
ても取れる」という「パラドックス(逆説)」が存在することを肝に銘じるべきです。
もちろん善良な納税者の利益を守るため不正を的確に発見できる「納税者番号制な
どのシステムの整備」が同時進行で必要でありますが。
さて日本の場合問題なのは、アメリカ以前の問題であり、善良な預金者に莫大な損
失を与えるゼロ金利政策や巨額な国債を発行し財政赤字を伴う財政政策を行っても
景気浮揚効果が全く出ない経済構造になってしまい経済の波動つまり景気の循環過
程を失い、あたかも経済の底なし沼にじりじりと落ち込んでいることなのです。
ただアメリカとて「経済の波動つまり景気、不景気の循環」からは逃れられないの
は経済学上当然の事なのであります。 しかし景気に波があることは経済が正常な
証拠であり、アメリカは正に正常であり、日本の場合景気の波が沈み放しになって
いるのが異常な証拠なのです。
さて第二法則を若干詳しく述べると、税は本人以外の第三者へ所得を稼得させると
いう利他的結果をもたらす消費を規制する「消費規制税制」と自己の所得の獲得と
いう利己的結果をもたらす所得を規制する「所得規制税制」のいづれが経済発展に
悪影響が大きいかまたは経済に悪影響が無いかの問題であります。

まず所得税、法人税などの主として高額所得者からの直接税の税収は公務員の人件
費、公共事業等で全額消費市場へ流出する性格があり消費性向の高い低所得者層へ
全て所得分配が行われるので消費循環へ好影響をもたらすのです。
つまり所得のうち本来貯蓄になる可能性のある高額所得者の過剰貯蓄可能部分を強
制的に国が消費に還元するために徴収し所得分配するのが「直接税の本質なのです」。
ここが強制ではなく設備投資の資金の需給関係によって消費へ変換する作用のある
「貯蓄との本質的な差なのです。」 したがって設備資金の需要が存在しない場合
の過剰貯蓄はケインズの言を待つまでもなく、経済にとって百害あって一利無しな
のであります。
つまり現在の日本では消費に強制課税という規制が掛けられているため稼得した所
得は消費者の選択によって利他的結果をもたらすはずの消費へ回らず課税規制の無
い貯蓄へ無理により多く配分されてしまうので、さらに消費が不活発になり国内の
設備投資へ資金が使用されるはずもなく、無用な資金が銀行へ退蔵されるばかりで
あり、それが国内市場で消化されないため国外投資へ回るだけであり、ますます資
金需要は低いため金利を上げる余地は全くなくなり日本国内の金回りが縮小してい
くのであります。
問題点としては消費規制を行うと個人消費が不活発になり国民総生産(分母)が増
加しないので租税負担率や国民負担率が高まるため国という非効率な機関に資金が
通過する割合が高まるので所得分配に市場の力が働かずに行われるため資金配分に
ゆがみが出ることが問題なのです。
したがって一般的に直接税重視の国は消費規制が少なく個人消費が活発になり経済
のパイが拡大するため租税負担率や国民負担率が低く、間接税重視の国は個人消費
が不活発になり経済のパイが拡大しないためこれが高くなる傾向が顕著に現れて経
済に悪影響が出るのです。
したがって別項で述べております消費と所得の詳しい分析と合わせて高額所得者に
対する高率の累進税率そのものが消費や経済成長の妨げになるという議論は全くの
誤りであります。
逆にそれよりも消費そのものに課税して消費を規制することの方が遙かに消費の増
加ひいては経済成長に大きな悪影響を生じるのです。
「ケインズの述べるように消費者が消費を抑制したり高額所得者が必要以上の貯蓄
をすることこそ自己回帰的に消費が活発化せず経済成長の阻害要因になるのだとい
う認識が大事なのです。」
また「低所得者層は消費性向が高いのであるから、高所得者層に対する累進課税に
よる税の強制徴収つまり過剰な貯蓄を防止し低所得者層への適正な所得を分配する
(補助金を支給せよと言っているわけではない)ことが国家の財政再建と経済成長
の両立の原点なのであります。」「そして高額所得者が課税を適正に逃れたかったら
それを消費する道つまり必要経費を広く認める工夫(つまりこれこそが自由な所得
分配構造)を選択出来るようにすると消費は加速されるのです。」「そして更に消費
そのものへの課税という規制を全廃することによって移り変わりゆく時代と共に人
間の消費したいという等速度または等加速度の増加欲求を素直に表現させることが、
消費を所得に変換して生活する人間の経済社会の自己回帰的増加発展の原点になる
のであります。」
つまり消費の規制は経済の拡大に甚大な悪影響があり、所得の規制は経済の拡大に
殆ど悪影響は無いのです。

そして供給面では人間の普段の努力と科学技術の発展を素直に活用すれば、供給は
無限に増加は可能であり、この需要増と供給増がシンクロナイズして結びついて「経
済成長が達成」できるのです。
そして大切なことは有体物商品の消費がゴミとして地球環境に悪影響を与えるとい
う懸念については、国民自身に対策を選択させることが重要であり、一般的に言え
ばゴミの排出の少ないサービス産業の大幅な創出努力と有体物商品の個別生産物規
制つまり将来全ての物はゴミとなる宿命であるところから「極端に言えば埋め立て、
焼却、タレ流ししても無害に自然分解して土に帰る物以外原則として生産させない
規制とリサイクル処理の効率化を計るための規制」が重要になります。
留意すべきは地球温暖化の元凶と言われる炭酸ガスは、自然に光合成によって無害
化出来る物質であり、林業の保護によって地表面上に木材として炭素を固定化出来
ると同時にコストさえかければ比較的簡単に炭酸ガスは科学的に固定化できるので
す。
ただ余りにも大規模な設備やコストが必要なため、その方法について研究が重ねら
れているのです。 したがって炭酸ガス処理問題については将来は科学技術で対応
可能であるが、膨大なコストがかかる点だけが問題なのです。
ここにも原子力発電の必要性と危険性との本質的な比較検討の国民的議論がいづれ
生じてくると思っています。
「真の環境保護派」は「原子力発電反対運動を展開している人達」なのか「原子力
発電を推進し化石燃料使用減少を訴えている人達」なのか、いづれ答えは100年
以内に時間と共に明らかになっていくと思っています。
さて原発立地に居住する方々が反対することは理解できますが、全ての人間が普通
の生活を送るために必要な経済の過剰性を地球環境や温暖化に悪影響を与えること
なく維持するためには科学技術に頼る以外方法はなく、大部分のエネルギー確保が
太陽光からの直接発電技術が確立するまでのこれからの50−100年間のつなぎ
のエネルギー源として大規模な発電施設は化石燃料発電施設の増設ではなく、主と
しては原子力発電に依存することも一つの選択肢と考えています。
さらに二酸化炭素の固形化、固定化技術が発達しなければ現状の化石燃料発電施設
は大幅な削減も考えざるを得なくなり、更に自動車の存在自身、電力利用の動力方
法もいづれ考えざるを得ないかもしれません。
さて太陽でさえ核融合という原子力エネルギーで輝いている事実を理解する必要が
あります。
そして人間は地球温暖化の悪影響が出ても「助け合ったり、逃げ出したり」いくら
で生存競争に勝ち残るために対策が立てられるが、人間以外の動物も植物も他所へ
逃げ出すことも移動することも対策を立てる術も知らず環境の激変をモロに受け止
めざるを得なく「人間の利己的行為」のために、人間と同一生態系にある人間以外
の動物、植物が大きな被害を受けることは人間のエゴと考えるからであります。
原子力発電問題は地域的な局限性があり、被害が発生した場合は「因果関係が比較
的はっきり判明する性格があり、反対運動が起きやすく」これに対して化石燃料を
燃やし続けて起こる被害は主として気象異変として起こるため「因果関係がはっき
りしない性格があるため、目に見えた反対運動が起きにくい」性質があるのです。
しかしながら私自身の実感では現実として地球上で現に発生している「化石燃料を
燃やし続けていることによる地球上の人間及び動植物に与えている深刻な被害は原
子力発電によって生じている被害の何十倍、何百倍に現に達していると推定してい
ます。」
とすると人間は自らの生存のために過剰性を維持しなければ生存出来ない宿命にあ
る以上自ら自身がリスクを背負い他の動植物に出来るだけ迷惑を掛けないで経済の
過剰性を維持する科学的な道を模索しなければならない「義務」があると感じてい
るからです。
原子力エネルギーにもリスクがあると同時に化石燃料を燃やし続けることによる二
酸化炭素の排出の維持にもリスクが伴うのです。
どのみちリスクが伴うなら人間はどちらを選択することが地球環境や全地球的生態
系維持のための地球道徳上望ましいかの選択・淘汰する事が「人間の義務」である
と言う考え方も出てくるのです。
ここ10年間のコンピューター技術の進歩、通信技術の進歩、素材開発と解析技術
の進歩は著しく、より安全な(もちろん絶対安全はあり得ないが)原子力発電の基
盤は整いつつあります。
さらに利他的に考えた場合、高度な原子力発電が不可能な発展途上国のために化石
燃料の使用枠を残しておく義務が高度な原子力発電が可能な高度先進国にはあると
いう考え方も存在するのです。
現在の状況では最も膨大に化石燃料を燃やし続けている科学技術の発達した先進国
は「原子力発電」と「化石燃料を燃やし続ける」ことによって起こる、いづれのリ
スクを背負うことが地球環境道徳にとって望ましいかの問題なのです。
更に自動車のエンジン燃料も地球温暖化の大きな一因であり、結局の所これも「電
気を利用した解決方法しか無い」以上、発電問題は今後の人類進化上の大きな課題
になることは事実であります。
その意味で「ドイツの原発廃止の決定」と、「アメリカの原発の設置再開決定」とい
う正反対の決定がほぼ同時に行われましたが、このいづれの対応が地球環境にとっ
て正しい選択なのかは今後100年間で結論が出てくると考えています。

そのような論点も踏まえた上で、この問題は「縦から横から斜めから表から裏から、
タブー無しに、一つの理念に凝り固まらずに、事実や現実を良く見て国民的議論を
深め政策を選択するべきと考えています。」
さてサービス産業では経済の過剰性は達成出来ないとか経済成長を維持できないと
言う考え方は間違っており、サービス産業も商品生産ほどでないにせよ生産性の向
上はあるのであり、さらにサービス業のメリットは「優れた所得分配機能を有する
点とゴミの排出が比較的少なく地球環境へ負荷が少ない特性」があり、ここにサー
ビス業を伸展させることによって人間に多くの雇用の機会を与えそして経済の過剰
性の拡大を地球環境を大きく損なうことなく達成できるのです。
そして国家は安心して国家間の競争に耐えうる「機械化され失業を発生する超高生
産性企業を育成する経済的基盤」を国内に作り上げられるのであります。

まず未開拓の慈善や福祉や環境に関する多く分野に小規模な民間企業が自由に参加
し参入できる規制緩和をまず積極的に目指すべきなのです。
そしてこれらの分野は本質的に公共的な性格を持っているところから、特に公共と
競合する分野には一定基準を設け企業補助をするとか利用者には所得控除を認める
などの対策を採って国家直接運営の増大コストの削減を目指す工夫をするなど、積
極的なサービス産業の発展を促すことが大切になります。
そして新規産業ばかりでなく既存産業などあらゆる方向へ経済の過剰性が拡大し人
間に雇用の機会を与え経済発展することが高額所得者に更なる大きな発展のチャン
スをあたえるのです。
そして社会経済の閉塞感も少しづつ払拭されていくのです。
生物の進化論とシステム工学などの人工進化システムの結論から国の政策や法律に
適用すべき進化論は基本的に国民による「人為淘汰」であり、国の政策や法律に対
しては環境とは国民大衆が環境そのものとなるのであります。

つまり国の政策や法律が国の進化発展に資するためにはその政策や法律が国民大衆
に如何に「適応」して「生き残るか」の競争こそがその「本質」なのであります。
つまり国民大衆の自ら幸福になりたいという素直な欲求こそが、この固有の権利の
実現のために国民大衆に定着し、適応して生き残ったものが良い政策なのでありま
す。
此の世は「無常(常無し)」であり「時代は移り変わりゆく」のであるところから定
まった良い政策なるものは存在せず、つねに「歌は世につれ世は歌につれ」であり、
したがって環境により一層適応するための変異(改善)が適正に且つ迅速に行われ
るための厳格なルールが必要なのであります。
科学技術もスポーツも良い物が生き残り進化するのは、「誰でも自由に参加出来て
良いものが生き残るという厳格なルールと競争(協同)」が存在するからなのです。
そこには参加を妨害する自由は誰にも無いのです。
したがって参加を妨害する自由を徹底的に規制するところに「進化があるのです。」
自由とは一人一人の人間に対して「参加する自由」を指しているのであり、「フェア
ーな自由がその本質」であり、「平等とは対等な平等で競争(協同)することこそが
その本質」なのであります。
あらゆる政策、あらゆる法律にこの概念を導入することが進化システムが有効に機
能する原点になるのであります。
また国民は「税の負担者」であると共に「政策の受益者」であるという自己回帰的
な二重人格と自己決定性を有しており、国民はこの両者を最終的に調和させること
が出来る唯一の当事者なのです。

また同時に国会議員は「税の負担者」としての国民の立場を重視する国会議員と「受
益者」としての国民の立場を重視する国会議員に分かれるのは当然であります。
しかし結局の所その全ては国民に跳ね返ってくる自己回帰的な関係にあり、国民は
ありのままの言細かい真実な情報を提供を受けることで常にどこかの均衡点に収斂
する国家運営の最高機関である国会採決が出来る厳格なルールが存在しなければな
りません。
「したがって減税の主張は受益の削減を主張しているのと同義語であり、受益の増
加の主張は増税の主張と同義語であることをまず認識しなければなりません。」
さて「市場経済システムも民主主義システムも科学技術システム等とんでもない大
規模なシステムも進化システムであるからこそ自動的に進化発展するのです。」
また最近の例を挙げると世界中に張り巡らされているインターネットもリナックス
OSも日本製のTORON OS(日本製通信機器、電子機器の大部分に使用され
ている)も進化システム要素を十分持っているので自動的に進化発展するのです。
つまり私の主張は固定的な理念や観念ではなく自動的に日本経済や日本国が進化発
展する基本条件つまりルールを整備することを提案しているのです。

これなくしては政治経済を始め日本の全ての進化発展は遅々として進まず、国家財
政ばかりを浪費する上、いづれ又他国にも迷惑を掛けてしまうからであります。
そしてここに述べる自己回帰的という表現は自己決定性でもあり「自己責任原則」
と類似の概念であり、本文の各種の概念やキィーワードを列挙すれば以下の通りと
なります。

1.国家は国民という人間個人の幸福の追求に役立つ目的で存在しなければなりま
せん。 (機能的国家論)
したがって民間企業は常に競争に曝される外部競争条件を持っているので進化する
のであり、独占的存在の国家は外部競争条件を持たないがゆえに厳格な内部競争条
件(独占組織内の厳格な政策決定ルール)を持たなければ進化せず停滞国家に陥っ
てしまうのです。

2.現在の状況は「過去の政策の結果」であり、「未来」は「現在実施しようとして
いる政策」の結果が表れるのです。
したがって未来には不確定要素もあるところから、その政策による未来を確率的に
予測できる人材の育成が重要になります。
未来を確率的に予測出来ない人間はエリートとは言えないのです。
これも現代物理学においてハイゼルベルグが発見した「全宇宙を構成する素粒子の
行動の不確定性原理」からいって当然のことであり、近世の哲学的決定論は崩壊し
ているのです。
この世の全ての事象は突き詰めれば素粒子が確率的行動を取る以上確率的存在でし
かありえないのです。
つまり全ての政策に絶対などはなく「過去の事実と未来を予測し」確率の高い政策
をとると言う姿勢が大切なのです。
諸行無常とは「常無し」を指します。 この世は「無常であり不可逆的なのです」。
「歌は世につれ世は歌につれであり、時代は移り変わりゆく」なので「王道は無い
のです。」
自己回帰的とは輪廻でもあり自己決定的な自己責任原則でもあります。
自らの行動が自分自身に戻ってくる事を言います。  政策もまたしかりなのです。
したがって「歴史上何十回何百回あらわれた末法思想はいづれも正しくは無かった
のです。」 
この世に定まった末法の世など存在しないのです。
世界中で5500万人−6000万人が戦死した日本にも責任のある第二次世界大
戦という未曾有の殺し合いの世界でさえ今になってみれば末法の世界では全く無か
ったのです。
したがって現代のエリート経済評論家が唱える「消費すべきものが無くなったので
この世に経済が成長する根拠が無くなった」等という「些末な末法思想は全くの誤
りであり」「全ての末法と見える物は人間が作り出した人為的な現象そのものであ
り、人間の考え方が変われば全ては変わりうるもので末法の世界という固定的世界
はこの世には存在しないのであります。」
消費が停滞しているのは消費を規制してしまったために自己回帰的に所得が増加せ
ず、更に消費が停滞するといった無限連鎖の悪循環へ陥っているだけなのです。
誰が狭い賃貸住宅で満足しているのでしょうか、誰が貧しい食事、貧しい衣服、子
供に充分な教育を受けさせられないことに心から満足しているのでしょうか。
所得が伸びないから「心の自己抑制」をしている人が多いだけののです。
人間が環境に適応し生き残っていくために現状を改善しようとする「意志がある限
り人間社会には進化・進歩と変異・変化のみが存在し、固定化した社会は存在しな
いのです。」

「特定のエリートが人間社会を制御・コントロールしようとすると進化・進歩が遅
れるだけで結果としてエリートの思うようにはならず変異・変化は混乱し結果とし
て停滞するのです。」

3.相互作用とは現代物理学の素粒子論におけるが如く、個々の国民大衆一人一人
の相互作用を本書では指しています。
だからこそ進化がおこりそれ故人間の経済社会は複雑なのです。
相互作用と自己回帰性から確率的に発生する原則は「その時代その時代において国
家が誤った判断を行えば、国家へ誤った結果がもたらされる元となり」「愛すること
は愛される元となり」「裏切ることは裏切られる元となり」「殴ることは殴られる元
となり」などの他者への相互作用と自己への回帰性の論理であります。
したがって民間企業の経営においてその時代の人間環境に良く適応した「良いこと
を異常にやる企業は急速に発展し」、「普通にやる企業は普通程度に発展し」、「悪い
ことを異常にやる企業は倒産する」のです。
この人間の行動の結果の他者に対する相互作用と自己への回帰性(自己責任原則)
は人間を理解する上での根本的な原理、原則なのです。
国家の経営も民間に適用される外部競争方式と異なる内部競争方式である違いはあ
ってもこの相互作用と自己回帰性(自己責任原則)は同一であり根本的な原理原則
なのです。
そして良い自己回帰の結果を得るためには、国家では内部競争条件ルールを厳格に
遵守し、「変異」という政策の改善の試行錯誤を、常無しの移り変わりゆく不可逆的
な等速度または等加速度的に歴史が進行する中で淘汰・改善を続け微分積分的に限
りなく「国民の幸福への実現に接近する手法」をとることが必要なのです。


4.あらゆるスポーツも経済の運用も「基本に忠実」でなければ良い結果を得られ
ません。
基本に忠実であるためには、「本質」を良く理解しなければなりません。
それでは「経済成長をもたらすものの本質」は何でありましょうか。
それは地球上に住む他の無数の生物と人間の決定的な違いに由来するのです。
その違いは「知能と現状に満足しない極度に発達した好奇心」の本能の存在が需要
という消費行動と科学技術の進歩を人間へもたらしたことがその本質なのです。
人類つまり人間は生存の為だけ以上の過剰性を常に追い求める本能、特性を持った
地球上唯一の生物なのです。
この人間の本能、特性が経済成長をもたらしている根源なのです。
さてその本質を理解した上で主要経済用語の本質に迫ることが大切なのです。
この世の人間社会に事実として人間しか存在しない以上、需要(消費)=供給(労
働)という最も単純で重要な経済公式と所得=消費+貯蓄=総消費という最も単純
で重要な経済公式に秘められた各々の用語の特性を分析することなのです。
この公式の中で自己回帰的に自己決定性を持つ無限の増加エンジンは需要(消費)
と供給(労働)だけなのです。 所得も貯蓄もそのような特性や性質は全く持って
いないのです。
供給は人間の労働と機械が融合し自らの意志と努力によって「科学技術が無限の供
給力の増加エンジン」となるのです。
しかし供給は需要があって始めて成り立つものであり、経済的には需要の優先性を
強く認識しなければなりません。
その意味でも経済の全ての出発点は需要(消費)になるのです。
そして需要(消費)は人間個人が幸福になりたいという強い欲求から今より良い物
やサービスをという時代時代の要請による欲求がある限り「自らの意志と欲求によ
って無限により良いものを望む需要(消費)の増加エンジン」になるのです。
そしてこれに供給がシンクロナイズするところに、経済成長が生じるのです。
そして所得は他者から稼得する物である以上自己回帰的な増加エンジンにはなり得
ないのであり、貯蓄は元金が自己回帰的に増加したりはしないのです。
そこで消費の増加を継続的に維持するためには所得分配のシステム的な促進が必要
になるのです。
であるからして経済の基本はこの需要(消費)を直接的に課税という手段で絶対に
規制してはならず、規制する場合は人間の幸福の追求にとって役立つ場合のみの個
別規制に止めるべきであります。
したがって資本主義における市場経済下において経済を進化させるには主要経済用
語の内の需要と供給の「最終結果」であるとともに、需要と供給の無限の増加に直
接的に全く悪影響のない「所得と資産(貯蓄)」を適正に評価し課税するとともに所
得分配効果を発揮させる税制として基本にするべきなのであります。
所得課税(所得税、法人税)と資産課税(相続税、贈与税)は税率が高くなっても
経済の進化に直接的な悪影響が殆ど表れないからであります。
逆に税率が高すぎて無軌道な金融緩和策と結びつくと経済成長を進めすぎるバブル
が生じることは日本もアメリカも経験済みのことであります。

逆に多額貯蓄が可能な高所得者層の所得税率を下げ消費税率を上げると、貯蓄が増
加し消費が減少するため、所得が自己回帰的に増加せず、消費が不活発化となり設
備投資は息切れを起こし設備投資のための銀行借り入れは増加せず貯蓄ばかりが増
加するため貯蓄資金は借り手がいなくなるため需給関係から金利は大幅に低下し結
局自己回帰的に貯蓄の多い善良な国民や高額所得者に金利受給の利益が大幅減少し
大損害を与えるのです。
所得税率を引き上げ、消費税率を大幅な減税するか、基本的に全廃できれば、この
反対の良サイクルを取り戻せるのです。
つまり国民の幸福の追求にとって、消費税は増税が極めて難しい税制であり、これ
に反して所得税は増減税が自由に行っても経済に悪影響が極めて少ない税制であり、
経済の微調整が可能な税制なのです。
もちろん国民の幸福の追求という「不可能に挑戦せず、皆で渡れば怖くないという
哲学のもとに」経済成長を求めず、失業を放置し、合計特殊出生率低下を放置し、
自殺を放置する意志があれば国家としては別に現状の税制でも何ら問題は無いので
すが何と悲しい事でしょうか。
最後に基本に忠実と言うことは「本質」を理解しなければならないことは既に述べ
た通りです。
さて日本には日本人の国民性が、アメリカにはアメリカ人の国民性が、ヨーロッパ
にはヨーロッパ人の国民性が存在します。
日本では所得者本人で無く家計の管理者である妻が家計を管理する世帯が7−8割
を占めるという世界的に見て特異な社会慣習が定着しており、日本の全世帯の70
%以上の消費は女性が支配していると推測されますが、他の全ての先進国つまりヨ
ーロッパ、アメリカでは所得者本人が家計管理を行う社会慣習が確立されており、
そのため消費の70%以上は男性が支配しているのです。
これは事実としての根本的に重大な相違点であり、この基本を無視してグローバル
な税制を論理構成する愚かさを強く痛感するところであります。
またアメリカ人の消費過多傾向と日本人の消費過小傾向の違いは際だっています。
これは現実として消費を誰が担っているかによる差なのです。
このような「本質と事実」もよく理解して画一的ではない日本の実状に合致した税
制を構築しなければ経済の進化発展は望めないのです。


5.一人の人間はいくつもの重要な場面で正反対の立場に立つ、「二重人格性」を持
っているのであります。 国家面については「税の負担者であると同時に政策の受
益者」であり、経済面については「消費者であると同時に労働者(生産者)」である
など、その二重人格性は際だっています。
これは正に自己回帰的であり、自動均衡作用を持つ反対目標(カウンターオブジェ
クティブ)の必要性つまり国家が経済に微に入り細に渡り介入するのではなく、国
民に自らの意志で決定させながら進化する自動均衡作用を持つシステムの導入は十
分可能であると同時にその必要性を強く物語っています。


6−1.進化システムであるためにはスポーツと同じく「競争が自由(フェアーな)
と平等(対等な)の条件下で行われる厳格なルールとそのルール下による競争の結
果が進化を起こす」のです。
そしてそこには「結果として進化が起こる以上、常に結果責任意識(アカウンタビ
リティ)が必要なのです。」
さらに注意すべきは特定のエリート集団や特定の権力者がコントロール出来るルー
ルでは進化は起こらないという進化システムの鉄則が存在することです。
したがって国民の個々の相互作用を正しく発揮させるためには、エリートの意志に
左右されない人間個人個人の自由(フェアーな)と平等(対等な)の概念の確立は
重要になります。
なぜなら進化システムにおいて重要な条件は自由(フェアーな)と平等(対等)な
競争(競争と正反対の概念の協同も含む)ルールが正常に作動し、そしてその結果
について正確な評価による淘汰や変異(改善)が進むところに進化が起こるのです。
そして常に結果の評価は淘汰の環境に相当する国民が行うのです。
つまり進化システムでは「環境に決定権がある進化ルール」と「結果が全て」の世
界なのです。
さて現代の日本には「人間の存在そのものや経済重視こそ地球環境を悪化させてい
る原因であり、子供を作らず人口減少を容認することや経済の停滞自体も良いこと
なのだ」という主張は極めて大きな力を持っています。
したがってこの様な考え方の人々と、子孫を作り経済発展を願い子孫繁栄を願う
人々の間でどちらが正しいのかは未来は不明確である以上、これからはこれらの
人々の間で生活を自由に(フェアー)に平等に(対等に)競争していくことが重要
になります。
福祉制度という国が手を差し伸べる「一人の人間の生存と生き残りにとって、欠か
すことの出来ない異常処理場面において」人間のライフスタイルの差によって、国
がその一人の人間の意志の取扱いに差をつけるということは、「平等・対等概念」に
反することと考えています。
このために人間はどのようなライフスタイルをとることが、最も有利かを考えるよ
うになってしまい、予期せぬ副作用が現れるのです。
これを避ける為に国は常に人間一人一人の「フェアーな自由」と「対等な平等」を
実現する社会を目指さなくてはならないのです。
そしてその際重要なことは、生存に切迫した問題が生ずるような人道上の場合を除
き、安易に人道や人権という理念や言葉を盾に論理構成し、家族がいるために不利
益な取り扱いをする現在の福祉制度は極めて問題があります。
家族などの属人的な要件に関係なく、本人の意志のみで一人暮らしの人とそうでな
い人を平等に対等に取り扱う方向へ改善すべきであります。
ただ我々は資本主義社会に生活している以上、利用料や受給の単純確率(最大でも
2倍以内)については本人自身(家族ではありません)の資産と所得によって差を
つけるのはやむをえないと考えています。
資産のみで所得が無い場合は相続時の精算方式も研究する必要があります。
現状では子孫を作り、肩を寄せ合って生活し家族を大切にして生きようとする人々
に極めて不利な福祉制度ばかりだからであります。
本人以外の家族の所得条件を問題にしたり、扶養義務を問題にしたりする福祉制度
は全く本人にとっても家族にとっても不平等であります。
一人暮らしの人だけが、人間的に弱者であるとは限らないのです。
もちろん一人暮らしの方々は弱い立場の人が多いことも事実であるが、人間的にも
経済的にも強者(例えば所得は無くても大量の資産を所有するなど)だからこそ、
一人暮らしが可能な人も沢山いるのであるし、家族と一緒に暮らしているのは人間
的にも経済的にも弱者であるからこそ、やむを得ず自分の意志を殺してまで家族と
一緒に暮らさざるを得ない人も沢山いるからです。
まさに重要なことは「本人の意志」のみで「所得、資産に応じた個別対応規制を行
う福祉制度への転換」(利用料については本人の資産、所得によって差をつけるのは
資本主義の社会ではやむを得ないが)が、国民の自分自身へ適応したライフスタイ
ルを「人間が本来保有している遺伝子の意志を正しく発揮させ」自由に選択でき誰
に有利不利も無く適正な競争できる環境を国が提供できることになるのです。
つまり結婚して子孫を作り家族を形成するライフスタイルと結婚せず子孫を作らず
家族を形成しないライフスタイルとどちらにも平等(対等な)の立場で競争する条
件を国家は提供しなければならないのです。
現状の福祉制度を利用するには「人為的に親子や家族が離ればなれに一人暮らしを
することが最も利用しやすいと言う」「人倫に反した制度で運用されているからで
あります。」
現在のような人間一人一人を家族がいることを理由に不利益扱いをする福祉制度つ
まり人間一人一人をを平等に対等に扱わない福祉制度は不平等であり人間一人一人
を自由(フェアーな)と平等(対等な)の条件下での「本人の意志のみで家族の有
無に関係なく、取り扱う福祉制度に」変更し一人一人の日本国民の生活の進化とラ
イフスタイルの自由な競争に大きなゆがみを生じないようにしなければならないの
です。
いまのままでは正に子孫をつくらず、一人暮らしを国家的に奨励していることにな
ってしまっているのです。
つまりこれは一人の人間の取り扱いの平等性を侵し、「不平等取り扱いという規制
の一種」に該当するのです。
ただ利用料については我々が資本主義の経済社会で生活している以上、本人の所得
や資産(家族分ではない)によって差をつけるのはやむを得ず、しかも資産のみで
所得が無い場合は相続時に精算する方式を研究するべきです。
今のままでは未来を支え高齢化社会を支える子供を作ろうとすることは極めて人間
の生活にとって負担であり且つ生存にとって有利なことは何もなく不利益が多く、
したがって子供が減少するのは当然であり、現状は政策的、人為的な人口減少なの
であります。
苦労して子供を育てたために自らは福祉制度の恩恵に浴せず、苦労して育てた子供
が子供を作らなかった一人暮らしの老人を主として支えるとしたら私は何のために
わずかな収入から多大な教育費を負担し苦労して子供を育てたのでしょうか。
これを家族の愛情と人権思想だけにしわ寄せすることは正直に誠実に人生を送って
いる多くの国民に非常に不平等であり不利益であります。
そして福祉に国家が力を入れることは、道路や橋を作ることと結果的に経済効果に
は大きな差は無いのです。
したがって国民の要望の強いどうしても必要な施設については民間を活用してもド
シドシ拡大すべきなのです。  結果としてこれも雇用対策になるのです。
特に出生率増加策に予算を投じて出生率が向上すれば産業関連表以上のすばらしい
経済効果が生じるのです。
赤ちゃん一人の誕生は日本経済の20年後に確実に概算年間300万円の消費と3
00万円の生産を約束してくれるからであります。

6−2.また日本の歴史が始まって以来未曾有の出来事であるが、100年後の人
口が6000万人減少することが、現時点で国自身が厚生省や経済企画庁の公式統
計で発表している以上現時点での国家予算の使い方は、人口の減少を食い止める施
策か人口が半分になっても無駄にならない公共投資に出来る限り特化して使用しな
いと、全ての国家予算は将来の無駄のための使用になり(将来の子孫にとって無意
味で非効率な)かつ将来の子孫に重い負担を背負わせることになると、肝に銘じる
べきと考えています。


7.個々の国民の相互作用こそが重要である以上、ルールが国民の地位や属人的要
素に影響を受けない「シングルスタンダード」の原則は重要になります。
日本の刑法は「シングルスタンダードゆえ日本国民に信頼されているのです。」
進化システムを取るためにはダブルとかトリプルスタンダードの存在は国民の幸福
の追求に確実に役立つとき以外認めるべきでは無いのです。(もちろん疑わしきは
罰せずの原則がある刑事裁判ではより厳格な条件の証拠が必要であるため同じ証拠
によっても刑事裁判では無罪、民事裁判では有罪の時があるなど国民の幸福の追求
のため特別の配慮が必要なときがある。)
しかしそのような特別な配慮を必要としないのに、極端なダブルスタンダードの例
としては、国会議員の選挙の際適用される国民相互間と国会議員候補者や国民への
政党の影響力を厳しく規制し国民の良心と自由な意志決定を保証し自由と平等を実
現している公職選挙法と比較してそれが適用されない国会採決(選挙と同じ効果の
はずなのに)においては国会内における国会議員相互間や所属政党間、所属派閥間
の国会議員に対する束縛や影響力行使を野放し(例えば政治資金規制法などで)に
して国会議員の良心と自由な意志決定を放棄させ妨害している自由と平等を踏みに
じった政党や派閥支配を容認している日本の政治システムの二重構造は正にダブル
スタンダードの典型例であり憲法の趣旨(国会議員の個人としての独立性の尊重−
憲法49条、50条、51条)の違反体制であるのです。
これは全てシングルスタンダードにすることが、国家が進化を開始する出発点にな
るのであります。
まず国会議員や所属政党にも国民が適用されている公職選挙法と同様の趣旨の法律
を適用すべきなのです。
そしてこれこそが国民の衆目の中「政党という組織に頼らない」個人として優秀な
国会議員を育成する原点になるのであります。
これこそが日本国憲法という日本の基本法に「政党や派閥という組織が全く規定さ
れていない趣旨」なのです。
国会議員の個人の良心と自由(フェアーな)と平等(対等な)の精神に基づく誰に
も影響や束縛されない個人的判断の総合計(国会採決)こそ最重要なのであり、政
党組織や派閥組織による事前決定や箝口令や党議拘束などによる国会議員の良心や
自由と平等の意志表明の抑制や妨害は日本国憲法では全く予定していない「悪しき
政治慣行」なのであり、このために現状の日本へ進化システムが作用しないのです。
政党や派閥より国会議員個人が優位であることが日本国憲法の趣旨そのものなので
あります。
政治には固い絆の政党や派閥は必要無く、緩い絆の政党や派閥こそが望まれている
のです。
個人として能力を鍛え強い似たもの同士の思想哲学を持つ優秀な国会議員個人が主
体となって集まって緩い絆の政党や派閥を組織するのであり、政党が主体となって
国会議員を固い絆で組織するのでは無いのです。
本質を見誤ってはならないのです。

8.制度や法律は「大量の人間」を対象として作られる以上、システム工学的に見
てシステムでなければなりません。
システムとは「部分が結合して作り上げられる全体を対象として認識するとき、そ
れをシステムと言い部分を要素という」と定義されています。
つまり制度や法律は人間一人一人を「要素」として捉えたシステムとして認識出来
るし、憲法上も求められているのです。
したがって基本的なシステムの「要素」である人間を「フェアーな自由」と「対等
な平等」という「基本属性をもった人間」として把握することは憲法上からもシス
テム設計上も根本的に重要な問題なのです。
もちろん組織においては、組織内外において「自由と平等の立場同士で締結された
契約その他」によって個々の人間の取り扱いを異にすることは法律に反しない限り
全く問題ないのです。
例えば良く買い物をしてくれる常連客と一見客では商品の割引率を変えたり、雇用
契約で雇用主と職員の立場が違ったりすることは当然の事なのです。
しかし人間が組織を選べない(契約主を選択できない)独占状態の国と国民のよう
な関係の場合、国の運営の対象となりかつ構成員でもある国民(国会議員も)一人
一人は「原則として完全に自由と平等を保証されなければならないことは」「憲法上
も進化システム上も必然な事なのです。」(しかし公務員は国と国民との関係とは全
く異なり退職転職は民間同様自由なゆえに、雇用契約によって自由と平等はある程
度制限されるのはやむを得ないことなのです。

そしてシステムにおいてはシステムそれ自体をさらに大きいシステムの要素として
認識することが出来るので、それら全てを階層構造を持つシステムとして認識でき
るのであります。
したがって各システム間で整合性を持った全体システム(憲法)の重要性を理解し
なければなりません。
したがってシステムである以上システム工学上の「システム開発の指導原理」と民
主憲法上の要請から「進化システム」を強く意識して制度や法律つまりシステムを
作らなければなりません。


9.そして「組織」(政党や会社などの)は人間個人が幸福になるための手段に過
ぎない存在であることをまず徹底して理解しなければなりません。
組織が一人歩きしたり、組織を人間個人より優先し始めた瞬間に不幸が始まること
を理解しなければなりません。
したがって日本の最高法規である日本国憲法を始め民主主義国家の最高法規である
憲法が人間個人に対する権利義務規定のみを定め、組織(政党や会社などの)の規
定は殆ど存在しない事実を重視し、本書では人間個人を中心に基本的論理を組み立
てていることは法的にも哲学的にもさらにシステム的にも合理的と考えております。
つまり組織は人間個人の幸福にとって役立つ時にのみ存在意義があるのです。
会社も政党も国家の存在でさえ人間個人の幸福にとって機能的であるときにのみ存
在価値があるのです。(機能的国家論)

10.国家の本質は「人間に対してあれをするな、これをするな と あれをしろ、
これをしろ!!」という「規制機能と促進機能を使い分け」法律で強制することが、
その本質なのであります。
法人税、所得税は所得規制がその本質であり、消費税は消費規制がその本質なので
す。

課税とは建前の理論は別にして「事実として罰金と同じ効果」を生じるのが「課税」
であり、その効果は「規制」でありますので、規制すればその行動は抑制的になり
ますので、その規制の対象となる行為そのものの本質を良く見極め、規制すべきか
どうかについて慎重に検討を加える必要があるのです。

11.同じく「価格は規制効果を生ずる」がその本質であり、突き詰めれば価格は
その商品の購入・消費規制なのであります。
ここに出来るだけ安価に商品を提供する効率の重要性が見え隠れするのです。

価格が半分になれば急速に売れるようになることでも明らかです。
これが価格の重要な一面なのです。

12.国家は独占組織である故に、進化システムである外部競争方式が働かず、そ
のままでは環境に適応できずその本質は非効率を温存する体質を持っています。
しかし国家に進化システムを作用させる方法があり、それは国家内部に内部競争ル
ールを厳格に遵守すれば環境である国民へ自己回帰的な「適応が可能になり」進化
システムが国家に作用し、自己回帰的に国家の経済社会は進化発展するのです。

13.官僚主義とは各種の理由をつけて人間の幸福を目指す進化の過程において誤
った進化の方向性を示したり、進化の遅さを、改善しようとする「変異」である試
行錯誤を積極的に取り入れない立場をとる「固定的、停滞的思想」を言います。
人間の人間たる由縁である「幸福を追求するための好奇心を持たない思想が官僚主
義」と定義しても良いと思っています。
また別の見方をすると「頭の中で組み立てた理念に基づき論理構成」を行い「社会
で現実に起こっている事実に基づき論理構成」を行わない思想を官僚主義と定義し
ても良いと考えいます。

経済社会の進化発展とは「人間環境への適応のための変異・改善を試行錯誤しなが
ら積極的に取り入れ微分積分的に適応への継続的接近を行う事を言う」のであるか
ら固定概念を重視したり、現状維持志向が強い考え方は進化論に向かず官僚主義と
表現されるのです。
官僚主義の欠点は進化スピードが極端に遅く、人間の幸福追求の方向性もなかなか
定まらず、人間環境へ適応できない根本的な課題を背負い込んでしまいます。

14.進化の源泉はシステム工学では「競争(協同)」と考えられておりますが、
それは他の動物には全く見られない「人間は極端な好奇心の本能を持つ動物である
と言う点です。」
この特殊な人間の本能は才能としてDNAの遺伝子レベルで他の動物との比較が明
らかにされつつあり、経済的には「供給面の生産力増加エンジンの本質である科学
技術の進化を促し」「需要面では需要増加エンジンの本質である新しい消費の創出
を促して」いるのであります。
であるからこそ人間の社会経済の世界は固定せず移り変わりゆく常無しの無常の世
界なのであり、不可逆的でありその時代時代の環境に適応するための進化のみが存
在するのです。

15.資本主義的愛国心について
資本主義の経済社会で最も重要な観点は国民の「資本主義的愛国心」であります。
これは煎じ詰めれば大部分の消費や貯蓄を国内で行うという義務感であります。
つまりこの資本主義的愛国心こそが、自国の資本主義の発展に不可欠の要件と考え
ています。   つまり政治経済が進化発展しない国を見渡すといづれも自国経済
システムを信頼せず自国製品より外国製品を好み権力者やエリートや多くの国民が
違法に海外隠し口座へ不正資金を蓄財している例が多発しているからであります。
この様な国に限って、国内の必要資金が枯渇しその国の経済はうまく機能しなくな
るからであります。
その国の経済機能が順調に進化発展するためには「自国経済を信頼する資本主義的
愛国心を発揮する善良な国民の存在は重要であり、自国民にインフレや失業という
不利益を与えない経済運営を行い、善良な国民を裏切らない不正者を発見できる、
しっかりとした経済システムの構築こそ国家の役割なのであります。」
ここにも「自由主義的資本主義の進化発展にはカネにはプライバシーが無いという
筆者の主張があるのです。」
また国内においても悪質な巨額脱税などの発生を防ぎ、善良な国民に損害を与えな
いためには「納税者番号制の導入は不可欠であります。」
また福祉制度における資力調査(ミーンズ・テストつまり本人の所得と資産調査)
は今後生活保護制度ばかりでなく、福祉制度全般に適用すべきと考えており、その
ためにも国民一人一人の資力の把握についても非常に重要な意義を持つものと考え
ており、その国民一人一人の法的な扶養義務という属人的な法的概念を優先すると、
家族で生活する国民を福祉制度上不利に陥れてはならず、国民一人一人の受給の意
志と本人一人(せいぜい範囲を広げてもその配偶者のみ)の資力に応じて福祉サー
ビスの価格を決定する体制こそ、家族のありように関係なく人間一人一人のフェア
ーな自由と対等な平等を実現し現状の肩を寄せ合い家族で生活する国民に極めて不
利な福祉制度改善の原点になるものと考えており、子供を作り家族で生活すること
が不利にならない福祉制度が合計特殊出生率の回復の大きな切り札になると考えて
おり、その意味でも「納税者番号制の導入は資本主義社会では必然的」と考えてい
ます。
アメリカの経済が景気変動があるにせよ比較的順調なのは「納税者番号制の徹底」
と「司法の陪審員制度の徹底による司法の大衆化」によって権力者やエリートの不
正を根本的には許さないシステムが出来上がっているからであります。
日本では契約に対する意識、法に対する意識に特殊性があり、現状のままでは直ち
に全面的な陪審員制度を取り入れることは国民性から考えて不可能でありますが、
「納税者番号制については直ちに全面的に取り入れることは可能と考えています。」
そしてこのことが「事実をもとに正しい判断をする全ての第一歩になるのです。」
事実や真実を元に物事を判断しようとすればプライバシー問題は最小限度に止め、
逆に納税者番号制を取り入れた上で、そのデメリットを遠慮を会釈のなく改善すれ
ば良いのです。



  次の頁へ     前の頁へ    目次へ戻る